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謎多すぎ...世界で起きた不気味な事件まとめ #3

ぞくっとするほど恐ろしく、あまりにも謎めいた日本・海外の事件をまとめました。その3。


平成26年 岡山小5女児監禁事件


誘拐した少女を飼育し、結婚するつもりだった..
出典 amanaimages.com


「自分好みに育て、結婚するつもりだった」というおぞましい動機で、小学5年生の女児を誘拐・監禁した藤原武容疑者。警察が踏み込んだ時に女児といた改造部屋とは別に、このニート男の家には、ドス黒い欲望を体現したような奇怪な部屋があった。危うく実行しかかっていた「幼女飼育」計画の全貌とは──。

「藤原さんが突然、A4サイズの用紙に描かれた美少女のイラストを見せてきたんです。『どう、かわいいでしょ?自分で描いたんだけど』と自慢気に言ってきたので、見てみるとプロ級の腕前。『すごく上手ですね』とホメると、ニヤニヤと顔を綻ばせた。去年の夏のことでしたが、今、思うとそのイラストは誘拐された小5の女の子に髪形や目のあたりが似ていて、彼にとって理想の女性だったのかもしれません」
そう語るのは、監禁容疑で逮捕された藤原武容疑者(49)の自宅で仕事をしたことのある建築関係者の一人である。
子供を持つ親をゾッとさせる誘拐事件が起きたのは、7月14日夕方のこと。岡山県倉敷市に住む小学5年生の女児が自宅近くの通学路で行方不明になった。
捜査関係者が事件について解説する。
「藤原容疑者は数カ月前から車で女児を物色している時に、偶然、事件で連れ去った女児を見かけて“一目ボレ”。犯行に及ぶまで10回以上、自宅付近を車で徘徊して、誘拐するタイミングを計っていました」


誘拐事件を起こした当日は、女児の自宅から100メートルほど離れた路上に車を止めて待機。下校途中の女児が目の前を通ると、「殺すぞ」とカッターナイフで脅し、後部座席に乗せて女児宅から8キロ離れた岡山市内の自宅に連れ去った。
「女児は、部屋の壁や天井に美少女アニメのポスターやイラストが貼られた1階の洋間に閉じ込められていました。女児を安心させようとジュースやお菓子を与えて、子供が好きそうなアニメを一日中見せていたそうです。それでも女児が脅えて逃げ出そうとすると、暴力こそ振るわなかったものの、ずっと言葉の暴力で脅していました」(前出・捜査関係者)
藤原容疑者にはこんな狙いがあったと、社会部記者は指摘する。
「犯罪被害者が犯人と一緒の時間を過ごすことで、しだいに好意的な依存感情などを持つようになる、『ストックホルム症候群』を期待していたようです」

しかし、藤原容疑者が夢みた「完全なる幼女飼育」計画は、5日で終わりを告げる。
7月19日午後10時過ぎ、岡山県警の捜査員がリビングの窓を割り、藤原容疑者宅に突入。1階の洋室で女児は白いパジャマ姿で布団に寝転び、藤原容疑者は隣のベッドでその様子を見ている時だった。

「身柄を押さえられた藤原容疑者は、女児について聞かれると、『私の妻です』とすぐにバレる言い逃れをした。部屋のテレビ画面には、アニメの『BLEACH』が映し出されていました」(前出・捜査関係者)
2001年から「週刊少年ジャンプ」(集英社)で連載している「BLEACH」は、死神になった高校生とその仲間たちの活躍を描いた物語で、小中学生の男女を問わず人気の作品。前出・捜査関係者もこう話す。

「アニメだけではなく、誘拐事件後、藤原容疑者は近所のスーパーで子供が好きそうな大量のお菓子を購入しており、監禁している決め手の一つになりました。誘拐を実行するまでは、車の後部座席とリアウインドーを黒いフィルムで覆って目隠ししたり、防犯カメラに映らない逃走経路を入念に調べていたが、監禁に成功してからは、周囲の目を気にするそぶりはなかったようです」
女児の気を引こうと必死に行動していたことがアダとなったようだ。

https://www.asagei.com/excerpt/25180




●昭和53年 集団900人自殺


狂った教祖の指示で900人が一斉に自殺...
出典 www.amazon.co.jp


ジム・ジョーンズことジェイムス・ウォレン・ジョーンズは1931年5月13日、インディアナ州の貧しい家庭に生まれた。
KKKのメンバーだった父親は、彼が12歳の時に家族を捨てた。以後、母親のリネット一人の手で育てられた。彼が生まれた町はいわゆる聖書地帯で、しかもファンダメンタリスト(聖書を文字通りに信じる宗派)が多い地域だった。

不遇な彼は信心にのめり込み、常に聖書を携えるようになった。そして、宣教師の娘、マーセリン・ボールドウィンと結婚したのを機に聖職者の道を歩み始める。彼が布教の拠点としたのは貧しい黒人たちのゲットーだった。

当然に実入りは悪く、猿を育てては売ることで運営資金を捻出していた。当時の彼を悪く云う者はいない。但し、差別主義者は別だ。黒人に奉仕するジョーンズは「くろんぼ好き」と罵られ、家には投石され、火炎瓶さえ投げられた。この時の屈辱的な体験が後の狂気の元凶になったことは間違いない。

それでもめげずに布教を続けたジョーンズは、1960年頃にはかなりの信者を集めるようになった。経済的にも潤い、実子のスティーヴンの他にアジア系2人と黒人1人の孤児を養子に迎えた。地域の福祉にも貢献し、彼は貧しい人々にとっての真の救世主になる筈だった。ところが、渾沌とした時代が彼を狂気へと誘っていったのである。

ジム・ジョーンズの人民寺院が急成長した60年代初頭のアメリカは、反戦デモと公民権運動で沸き返っていた。多くの黒人信者を抱えるジョーンズは、必然的にキング牧師やマルコムX、更には過激派のブラック・パンサーからも影響を受けることになる。
その教義は次第にファンダメンタリズムから離れ始め、差別のないユートピアを目指す共産主義へと接近して行ったのである。元ヒッピーの弁護士、ティム・ストーンが彼の参謀となったことでその傾向は強まって行った。

また、1962年のキューバ危機以降、ジョーンズは核戦争を異常なまでに畏怖するようになった。やがて彼のもとに神のお告げが下る。「近いうちに核戦争で全人類が死滅するだろう。但し、ブラジルのベロ・オリゾンテと、カリフォルニア州ユキアにいる者だけは生き残る」彼は教会の移転を決意した。狂気の暴走はこの時から始まっていた。


1965年にカリフォルニア州ユキアに拠点を移したジョーンズの言動は次第に過激になって行った。ある時、創世記のカインとアベルの一節を朗読していたジョーンズは突然、聖書を投げ棄てて、聴衆に向って訴えかけた。


ジョーンズを破滅に導いたのは、皮肉なことに、彼の右腕として人民寺院を成長させてきたティム・ストーンだった。
ティム・ストーンの妻グレースはジョーンズの愛人でもあった。1972年にはジョーンズの子を出産している。ジョン・ビクター・ストーンと名付けられたこの子をジョーンズは「ジョン・ジョン」と呼び、たいそう可愛がった。しかし、グレースはマートル夫妻の脱会を機に人民寺院に疑問を抱き始め、悩みに悩んだ挙句、遂に脱会を決意したのである。

ジョーンズの報復を恐れて居所を転々としていたグレースは、弁護士を雇って息子の養育権確認訴訟の準備を始めた。これにビビったのが夫のティム・ストーンである。彼は当時、人民寺院の後押しでサンフランシスコ地方検事補の職に就いていたのだ。彼の脳裏にはこんな新聞の見出しが躍った。「地方検事補と教祖様、ドロ沼の三角関係!」ヤバい。ヤバすぎる。

これまで人民寺院を政治的野心の実現に利用してきたツケが一気に回ってきたのである。一方、ジョーンズは愛人に裏切られるわ、眼の中に入れても痛くない我が子を返せと訴えられるわで半狂乱となった。そして、信者をまるごと率いて国外逃亡を決断する。これが死への道行きとなるとは、彼らには知るよしもなかった。


「もしもアダムとイブが最初の人類で、カインとアベルしか子供がいなかったとしたら、ノドの地の住人たちはいったい何処から来たというのだ?あなたたちはそこに黙って座って、こんな出鱈目を読んでいていいのか?私はでっち上げの神など信じない。空の上に天国などありはしない。我々が暮らしているこの世こそ、唯一の地獄なのだ」とても聖職者とは思えない発言である。むしろ革命家のアジテーションだ。
しかし、これが受けた。生活に苦しむ者にとっては、彼は怒りの代弁者だったのだ。このままならば、ジョーンズは単なる異端者に留まったことだろう。ところが、彼の暴走は止まらなかった。多くの連続殺人者がそうであるように、ジョーンズも過剰な性欲を持て余していた。有名になるにつれて、それはますます肥大化した。何人もの女と寝た後でも、まだオナニーできると自慢げに語っていたという。
しかも、両刀使いだった。信者たちを男女を問わず喰いまくった。
その一方で、被害妄想の傾向が強まって行った。「くろんぼ好き」と罵られ迫害された記憶が彼の精神を蝕んでいたのだろう。彼を批判するマスコミには脅迫状を送る、無言電話をかける等の攻撃をしかけた。彼が最も恐れたのはマスコミに情報を流す脱会者だった。

その電話を盗聴し、脅迫するネタを掴むためにゴミ漁りまでした。やがてFBIやCIAに狙われていると本気で信じるようになり、盗聴を避けるため頻繁に電話番号を変え、窓から双眼鏡で尾行者を探した。

ジョーンズの教えはますます異常なものになって行った。夫婦の信者には性行為を禁じた。夫婦の絆が弱まれば、妻が彼のハーレムに加わることは容易になる。一方で、家庭がなくなるのであるから財産を手放しやすくなる。
信者たちは全ての財産を彼に寄贈するという寸法である。まさに一石二鳥の妙案だ。ジョーンズが夢見たユートピアは、今や彼の欲を満たすシステムへと変貌していたのだ。
この頃になると「今のあなたは昔のあなたとは違う」と脱会者が急増し始めた。エルマーとディアンナのマートル夫妻もそうだ。彼らが脱会を決意したのは、差別主義者でないことを証明するために白人信者が黒人信者の性器を舐めることを強要された時である。狂っている。この男は狂っている。
マートル夫妻は脱会すると、ジョーンズを告発する準備を始めた。しかし、それも猛烈な嫌がらせに遭い、断念せざるを得なかった。なお、マートル夫妻とその娘は1980年2月に何者かに殺害されている。集団自殺後の出来事なので人民寺院との関連は不明だが、彼らがジョーンズの「暗殺リスト」に名を列ねていたことはまず間違いないだろう。


1977年、ジョーンズは1000人近くの信者を引き連れて南米の小国、ガイアナのジャングルを切り開き、ジョーンズタウンを設立した。しかし、ストーンは同行しなかった。妻グレースに寝返ったのだ。ストーンの目標は合衆国での政界進出だ。それがどうして南米に逃げなきゃならんのだ?ジョーンズはまたしても腹心に裏切られた。
そして、可愛いジョン・ジョンの引き渡しを求められている。マスコミの批判も過熱し始めた。彼は確実に追い詰められて行った。ジョーンズが集団自殺のリハーサルを始めたのはこの頃からだ。彼はそれを「革命的自殺」と呼んだ。ブラック・パンサーの指導者、ヒューイ・ニュートンからの受け売りである。曰く、「圧政者への黒人の抵抗は、警察の権力行使による死を招くかも知れない。しかし、こうした死は殉教者として自らを捧げるものであり、いわば革命的自殺である」これを「尊厳を守るための自殺を通じた抵抗」と曲解したのがジョーンズのそれだ。
要するに「捕まるぐらいなら死んでやる」という居直りであり、道連れにされる信者としては堪らない。ジョーンズタウンでのジョーンズの言動は更に異常になって行った。脱会者を極度に恐れた彼は武装組織を配備して厳重に取り締まった。それでも脱走を企てる者はリンチされた。その者に娘がいれば、皆の前で裸にされてオナニーすることを強要された。フリーセックスのエロ地獄。これがジョーンズタウンの実態だった。


1978年11月14日、マスコミの報道や家族会の要請を受けて、レオ・ライアン下院議員が報道記者たちを従えてジョーンズタウンを視察した。
特に目立った問題はなく、事なきを得たかに思われた。ところが、夜になると脱会希望者が記者たちに願い出た。「どうか助けて下さい」と。翌日にそのことをジョーンズに詰め寄ると、彼は酷く傷ついたようだった。「私は打ちのめされた。もう死ぬかも知れない」一行がジョーンズタウンを後にしようとすると、ラリー・レイトンという男がトラックに飛び乗った。
「俺も連れて行ってくれ。ここから出たいんだ」しかし、彼はジョーンズの指令を受けた刺客だった。空港には武装した一団が待ち受けていた。彼らが議員たちを銃撃し始めると、レイトンも銃を取り出して、脱会者たちを抹殺した。

「もうおしまいだ。間もなくアメリカの海兵隊がパラシュートで降りて来る。我々は皆殺しにされるのだ。ならばその前に潔く毒杯を仰ごうではないか。これは自殺ではない。革命的な行動なのだ」

信者たちにはバリウムで割って飲みやすくしたシアン化物が配られた。赤子たちは注射を打たれた。逃げようとする者は銃殺された。
このシーン、私は十代の頃に深夜のテレビで放映された劇映画で見て衝撃を受けた。
教祖がマイクで支離滅裂なことをしゃべり続ける中で、何百という信者が毒をあおり、苦悶しながら死んで行くのだ。
しかも、教祖の吹き替えが伊武雅刀だったので、異常な迫力だったことを記憶している。そして、すべてが死に絶えた後、教祖は自らのこめかみを銃で撃ち、ジョーンズタウンは死滅したのである。

これは本当に「革命的自殺」だったのだろうか?否。誰が見ても無理心中であり、大量殺戮である。オウム真理教の場合は幸いにしてこうはならなかったが、慢心し常軌を逸した教祖が現世に存在する以上、この惨劇は繰り返される可能性があるのだ。
https://www.madisons.jp/murder/text/jones_jim.html




●平成6年 自殺テープ


家族を殺し自分が死ぬまでの経緯を最後まで録音..
出典 amanaimages.com


平成6年11月14日、東京都葛飾区 西新小岩公団住宅の賃貸マンションの一室から、母(49)と娘(23)の二人の他殺死体が発見された。数日前から、電話をかけても出ないことを不審に思った親族が、この部屋を訪ねて発見したのだ。

母の遺体は、四畳半の部屋に敷かれた布団の上で、顔にはバスタオルが、身体には夏用の薄い布団がかけられていた。首にはロープなどで絞められたような跡がくっきりと残っており、寝ているところを絞殺したものとみられた。

娘の遺体は、自室のベッドの上に横たえられており、布団がかけてあった。母と同じように首に絞められた跡が残っていた。

しかしこの家庭の夫である松田雅夫(まさお = 50歳)は行方不明となっていた。この事件は結果的には一家無理心中である。自分の妻・良子(よしこ)と娘・恵(めぐみ)の二人を殺害した雅夫は、現場である自宅から逃走し、この後宛てのない旅に出た。

雅夫は、最終的には長野県のホテルで首を吊って自殺しているのだが、この事件が特殊なのは、雅夫が逃走の最中、自分の気持ちを随所でカセットテープに録音していることである。録音時間は全部で約40分。そしてその録音は最後に自分が首を吊る瞬間で終わっていた。


松田雅夫は、平成3年、47歳の時に、それまで務めていた「ソニーミュージックエンターテイメント」を退職し、自分で会社を起こした。自分の趣味であり、大好きだったクラシック音楽を扱うソフト製作会社で、事務所も構え、自家用車もベンツを乗りまわす毎日だった。しかし見かけとはうらはらに、会社の経営は困難を極めていた。

元々市場が大きいとはいえないクラシックの世界で需要がそうあるわけではなく、借金に借金を重ね、その額は2800万円にもなっていた。そして三年で事業は破綻した。

妻と娘を殺害したのは11月10日の朝。この日は、金融機関への支払いの第一回目の日となっていた。この日に700万円払わなくてはならない。金の準備に万策尽き、雅夫は一家無理心中を選んだ。


自殺に至るテープはまず、
「はい、松田雅夫が喋っています。こんなことをする気はなかったんですけれども、いくら手紙を書いてもしょうがありませんし、自分の気持ちを正直に言うにはこれが一番いいかな、と思って、思いついたように喋っています。」

といった口調で始まり、この中で資金に困っていたことにも触れている。
「資金のこと、もう本当に信じられないくらい一生懸命やったんですけれども、結局最終的には11月10日に間に合わない、と。

翌11日からは、もう矢のような催促が来るわけですし、捕まってしまえば逃げられなくなりますから、どうしても10日のうちに決めてしまわなければならない、と。」

決めてしまわなければならない、とは即(すなわ)ち、二人を殺して自分の死ぬ、ということを意味していた。

殺害した時のことについては、
「10日の早朝に良子を、それから恵に対しては『母さん、病気でちょっと寝てるから、ちょっとそっとしておいてくれ』というような形にして恵と一回対峙(たいじ)してですね、それで朝食も食べ終わり、彼女の後ろから、カミさんと同じロープで絞殺した、というわけです。」

雅夫はすぐに後追い自殺はせずに、この後旅に出る。

二人の遺髪を持ち、自家用車である白のベンツに乗って出発する。

名古屋から飛行機で海外へ行くつもりだったのだが、途中で心変わりして、「日本にもまだ見てないところがいっぱいあるし、日本の良さもまだそんなに知っていないんだし・・」と、テープにも予定変更のメッセージが残っている。


名古屋で一泊し、次は伊豆半島の下田へ。箱根では箱根プリンス、その後は富士山を巡る。


旅に出て4日目の11月14日。この日に東京で良子と恵の死体が発見される。当日雅夫は富士ビューホテルに宿泊している。

また、この時点ではすでに事件は発覚しているわけだから、警察に関しても注意を払っている。

15日。奈良に到着する。宿泊先は皇室も使用している一流ホテルであり、ここは娘の恵が「一度泊まってみたい」と言っていたホテルでもある。
「私は、もうそこで最後にしようということを心に誓っておりましたものですから。」と、ここで旅も終了し、このホテルで死ぬ決心をしている。

夜、ホテルで最後の儀式を行う。「私は良子と恵の分の食事も取りまして、二人の遺髪を飾り、花を飾り陰膳(かげぜん)と一緒に最後の食事をしました。まだまだ名残惜しい気持ちでいっぱいでしたけれども・・。」

そしてついに深夜2時ごろ、雅夫は自殺を決行するが、ロープが切れて失敗に終わる。
「鴨居(かもい)に、良子と恵に使ったブルーのコードをかけてですね、自分の・・もちろん自分の首にまわして・・(略)私は本当に、全く自然に足の下にあった椅子を蹴ったんですけれども、今、こうしてまだ生きているということ・・。」

「首吊りの途中でヒモが切れて、そしてテレビコードが切れて下に落ちてしまったんですね。真下に落ちたといっても、その周りはですね、とりあえず、あのー、自殺者特有の便ですとか、尿ですとか、それが全部外に出ているわけですから、とくかく、もう豚小屋みたいなもんですね。その上でもって、つるつるすべるわけですから、あっちこっちにぶつかって当然なんですけれども、まあ、その中で三、四時間、自分を取り戻すのに精一杯でしたけれども。」


首を吊る前にかなり酒を飲み、実行したのだが、結果は失敗しホテルを出た。この後、5時間ほど車の中で横たわり、回復を待つ。


雅夫は、再び死に場所を求めて旅立つ。頭に浮かんだのは、自分の故郷である松本だった。長野県に入ったのは17日の早朝だった。長野県塩尻市の山間部にあるホテルに宿をとった。

だがこの日は自殺には至っていない。


「丈夫なロープと、それから部屋を汚さないためのシートと、いろいろ買ってきて一日遅いけれども、万全の形で決行しようと、今日18日の深夜に至っているわけであります。」

この後は、先に殺害した妻と娘に対して謝罪の言葉が続く。そしていったん録音を止め、自殺の準備が整ってから再び録音が始まっている。これ以降は小型のマイクを胸元に装着して録音したらしい。

再開された録音は、なぜかここからずいぶんとノイズが入っている。バックの方で「ゴー・・」という音が延々と続く。

「全ての準備が整いましたので、私はこれから一人で、良子と恵の後を追いたいと思います。うーん、正直言ってちょっと怖いですね。一回目の時にスムーズにいってくれれば今ごろは終わっていたと思いますけれども、でも二人をこの手で殺したんですから、二回やるくらいの死ぬ苦しみをしないことには許してもらえないでしょう。」


深呼吸のようなものをしたり、息使いが荒くなったりしながらも録音は続く。
「気分を落ち着けるためにビールを一杯飲みます。情けないですね・・はぁぁ・・ふぅ・・」

「良子と恵が『いつまでウジウジしてんよ、早くおいでよ。』なんて言ってるような感じがします。そのすぐ傍(かたわ)らまで迎えに来ているような感じです。本当に死んでも悔いがないし、何もないし。一番大事な二人が先にいっているんですから、思い残すことは何もないはずなのに、気が小っちゃいんでしょうね、うん・・ふぅぅぅ・・今度こそ、死にたい。」

「今日は強いロープを二重にして、ぶらさがっても大丈夫な梁(はり)につけておりますから。もっと早いうち、死ねますから。排尿の中、動き回るということはないと思います。

今日はホテルに迷惑がかからないように普通の支度をしてますから排尿の屎尿(しにょう)は全部靴下ズボンの中に入るはず。あっ、そうか、靴下をもう一枚重ねておこう。その方が迷惑がかからない。一枚だと染み出してしまう。二枚履いとけば・・はあー・・ふうー・・。」


なかなか決断がつかず、荒い息使いが聞こえる。恐怖に耐えながら時間が過ぎていく。

「最後に間違えないようにしないと・・ふー・・一切が完了します。鏡台の上に乗って・・今・・落ちます・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「・・ここで死にます。思いっきり・・ふーっ・・死ねましたか・・ふーっ・・ふーっ・・ふーっ・・。」

「はい、・・ふーっ・・良子、恵、今から待っててくれっ。」
「絶対死なせてくれよ、頼むなっ!」

この直後、「うわぁっ!」という絶叫が聞こえ、これ以降の録音はない。後はゴーッという雑音がしばらく続いてテープは終わる。
翌日19日、ホテルの従業員によって雅夫の遺体は発見された。

雅夫は生前、「松田家の墓」として親族と共に墓を購入していたが、その墓に入ったのは結局雅夫一人だけである。親族が別に墓を建て、妻と娘の遺骨は、そちらの方へ葬られた。親族たちは、雅夫と良子、恵を一緒に埋葬することを、拒否したのである。

http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/006jisaturokuon.htm


●平成6年 井の頭公園バラバラ殺人事件


殺された理由が分からないバラバラ死体
出典 amanaimages.com


1994年4月23日午前、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱にポリ袋に入った人間の足首が捨てられているのを、(猫の餌を探すため)偶然ポリ袋を開けた清掃員の女性が発見した。

駆けつけた警察官らが公園一帯を捜索したところ、計27個に分断された手足・胴体の一部が袋に入って7か所のゴミ箱から発見された。袋は小さい穴のある水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らが使う特殊な方法できつめに結ばれていた。

手足の指紋はほぼ全て削り取られていたが、わずかに残っていた指紋とDNAから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の男性(当時35歳)と判明した。死因は不明。肋骨の筋肉繊維にわずかな生前出血の跡あり。

この事件について、目撃証言などから怨恨説や事故遭遇説、遺体の状態が複数人による組織的な犯行や異常性を匂わすことから宗教団体関与説など様々な説が錯綜していた。

しかし、交友関係からは全く犯人像が浮かばず、また、犯人に結びつく物証や情報が乏しく、2009年4月23日、犯人の特定に至ることなく公訴時効成立を迎えた。犯人の動機など不明な部分が多い事件である。


切断されていた遺体は、関節や臓器などを無視して長さや太さも揃えられ、電動ノコギリのようなもので20cm間隔に切断されていた。これは、公園内のゴミ箱の投入口サイズである縦20cm、横30cmにほぼ合っていた。

また、血液が一滴残らず完全に抜き取られていた。そういった作業を行うには、一般家庭では追いつかないほどの大量の水と医学的知識が必要である。さらに、手足の指紋はほぼ全て削り取られていた。遺体の切断方法は少なくとも3パターンあり、複数犯説の根拠の一つになっている。

発見された遺体は体全体の3分の1ほどで、被害者の頭部、胴体の大部分は現在も見つかっていない。残りの遺体は、事件発覚前日の22日に公園のゴミ箱に捨てられ、ゴミ収集車に運ばれ処分されたとする説もある。


知人と別れた直後の22日午前0時すぎには、被害者によく似た男性が被害者の最寄り駅で事件現場近くのJR吉祥寺駅デパート脇で2人の若い男に殴られていたという証言があり、被害者の遺体が発見された当日の23日未明(午前4時頃)には公園内をポリ袋を持って歩く不審な2人組の男が目撃されている。2人組の男はともに30代とみられる。

その他には、失踪したと思われる時間帯(22日未明)に人と車が激突するような物音がしたという情報もあり、交通事故にあった被害者の死体を隠すためにバラバラにしたという見方も出ている。


事件発生直後は、遺体を切断してゴミ箱に入れるなど奇妙な点が多いことからマスコミの注目を集め報道されたが、事件の3日後の4月26日に名古屋空港で264人の死者を出す中華航空140便墜落事故が起きてマスコミがこの航空事故に集中報道したことで、バラバラ殺人事件に関する報道が一気に激減した。その後も、新たな情報に乏しいことなどからあまり大きくは報道されなかった。

また、事件の約11ヵ月後にはオウム真理教地下鉄サリン事件が起きたことから、警視庁捜査1課の当事件の捜査員も招集され捜査本部は解散となり、三鷹署に単独で引き継がれた。その後、捜査1課が当事件を担当することはなかった。

http://jjiikkeenn.blog.fc2.com/blog-entry-139.html




●明治時代 ベル・ガネス事件


強盗殺人を繰り返した女は何処へ消えたのか...?
出典 www.amazon.co.jp


女性版の「青髭」として後世に語り継がれるベル・ガネス(旧姓ポールセッター)は1859年、ノルウェーのトロンヘイムで生まれた。父親は旅回りの手品師で、幼い彼女も舞台に立っていたという。しかし、ベルが十代になると一家は田舎の小さな農場に引き蘢る。退屈な日常に飽き飽きしていたベルは1883年、刺激を求めてアメリカへと渡った。そして1888年、同郷のマックス・ソレンソンと結婚、イリノイ州オースティンに落ち着くと農作業と子育てに明け暮れた。ベルはおそらくこのように思ったことだろう。
「刺激を求めて新天地に移り住んだというのに、故郷にいた頃と同じことをしている…」
やがてベルに転機が訪れる。1900年、夫のマックスが急逝したのだ。ベルが殺害したのかどうかは不明だが、とにかく、彼女は夫の死により多額の保険金を手に入れた。

2人の娘を連れてシカゴに移ったベルは、保険金を元手に下宿屋を始めた。ところが、開業して間もなく下宿屋は全焼。彼女はまたしても多額の保険金を手に入れた。それを元手に今度はパン屋を始めるが、これまた間もなく全焼した。
不審を抱いた保険会社から「お宅とのお取引はもうご遠慮させて頂きます」と引導を渡され、已むなくインディアナ州ラポーテで農場を営むピーター・ガネスと再婚した。彼との間には1男をもうけたが、1904年にまたしても彼女を「不幸」が襲う。棚から落ちた手斧がピーターの頭に命中して死んでしまうのだ。うまい具合に落ちてくれたものである。云うまでもないだろうが、ベルはまたしても多額の保険金を手に入れた。

保険金詐欺はそろそろ潮時と悟ったベルは、新たなる商売を始めた。それは後に「ロンリー・ハート・キラー」と呼ばれるビジネスである。まず、雑誌にこのような広告を載せる。

「当方、年若く見目麗しい未亡人。インディアナ州ラポーテに広大なる敷地の農場を所有。結婚を前提として、資産と教養のある紳士との交際を希望」<

そして、応募の中から条件(資産がある、身寄りがない等)に合う者を選び出すと、このように返信した。

「貴方様こそ私が探し求めてきた殿方に間違いありません。(中略)候補者の方からは相当額の現金か有価証券を担保としてお預かりすることにしております。財産目当ての不届き者を寄せつけないためには、それが得策だと思うからです。当方の評価額は、控えめに見積もっても2万ドルはございます。貴方様の誠意の証しとして5000ドルをご持参いただければ、将来について色々と語り合えるのではないかと存じます」

如何にも胡散臭い文面だが、多くのお人好しがカマキリ夫人の毒牙にかかって帰らぬ人となった。


ベルのビジネスが発覚したのは、アンドルー・ホールドグレンの殺害に関してだった。彼はベルには身寄りがないと云っていたが、実は弟がいた。しかも彼は弟にベルと結婚することを伝えていたのだ。それっきり梨の礫なのを不審に思った弟は、ベルに手紙で問い合わせた。そして、ベルから兄の行方不明を告げられると、すぐさまそちらに向かうと返答した。
来られては大変だ!
1908年4月28日、ガネス農場の母屋が全焼し、焼跡から4つの遺体が発見された。3体は長女のメイトル(12)、次女のルーシー(9)、そして長男のフィリップ(5)であることは間違いなかった。しかし、もう1体はベルであるかは判らなかった。その遺体は首が切断されていたからである。

1ケ月後の5月23日、ベルに雇われて農作業や雑用を手伝っていたレイ・ランフィアという男が4件の殺人と放火の罪で起訴された。そして、放火のみで有罪を宣告され、21年の禁固刑に処された。
一方、ガネスの農場を捜索した警察は、ホールドグレンを含む13名にも及ぶ遺体を発掘した。いずれも手足を切断され、油紙で包まれていた。
また、問題の首なし死体のそばからベルの入れ歯が発見されて、おそらくベルの遺体だろうということで事件は収束した。

数年後、監獄の中でランフィアは牧師に真相を告白した。自分はベルの愛人で、その犯行を手伝っていた。そして、あの首なし死体はベルではなく、拾ってきた浮浪者だった…。
これが真実ならば、犯行の発覚を怖れたベルは、身替わりを立てて高飛びしたことになる。ならば彼女は何処にいるのか?その答は闇の中だが、ひょっとしたら故郷のノルウェーへと戻り、悠々自適に余生を過ごしたのかも知れない。

https://www.madisons.jp/murder/text/gunness.html


●平成12年 山口母親殺害事件


母を殺害して「興奮」した少年の二度の殺人
出典 www.amazon.co.jp


少年の父親は酒癖が悪く、妻や少年に対し暴力を振るっていた。1995年に父親が病死し、その後は母親と2人暮らしであった。少年は学校では目立たない存在で友人も少なく、中学2年の頃から不登校がちとなり、修学旅行などの行事にも参加しなかった。中学校時代の少年は「悪魔」と呼ばれたこともあった。

高校へは進学せず、知人の紹介で新聞販売店で働き始め、ここでの仕事ぶりは真面目だったらしく、給料約9万円の半分を家におさめていた。
だが母親の借金のことを知り、取り立てに迫られたり、家賃や水道料金を滞納しており、生活保護も申し込んだが認可されなかった。事件直前の7月27日と28日には仕事を初めて無断欠勤しており、同僚に「母親が借金している」と悩みを話していた。また母親には再婚話があり「僕は邪魔者だから家を出る」とも話していた。

2000年7月29日午後9時ごろ、少年が交際したいと考えていた女性の携帯電話に、母親が無言電話をかけたということで母親と口論になる。少年は母親に問いただしたが認めず、母親が少年に対し「出て行け」などと言ったことに腹を立て、借金の事も絡んで口論となった。
怒りを抑えられなくなった少年は金属バットで母親の頭と顔と胸などを殴り、母親を殺害した。7月31日午前1時頃、少年は「母親を殺した」と通報し、緊急逮捕される。

少年は当初、弁護士選任を拒否し、派遣された弁護士と接見した際にも「自分はどうなってもいい」という話をして接見室から出て行った。
山口家庭裁判所は「動機に酌量の余地があり、計画的な非行ではなく、家庭環境も考慮すべき」として、中等少年院送致とした。

少年は審判で「許されないことをしてしまった。母が抱えていたものをもっと説明してくれていれば、違ったことになったかもしれない」と話した。
2000年当時は凶悪な少年事件が話題になっていたが、他の事件に比べて「母親の借金で口論になった」というものだったので、それほど凶悪犯罪扱いはされなかったのである。


少年は2003年に岡山少年院を仮退院した。

仮退院に関して、精神科の医師は更生に疑問を呈する意見を出していた。 パチンコ店に住みこみで働いたが、2005年頃からパチスロ機を不正操作し大当たりを出すグループに加わるが窃盗未遂容疑で逮捕され起訴猶予となった。その後も続けようとしたが稼ぎが上がらず離脱し、近くの公園などに野宿をしていた。


2005年11月17日、大阪市浪速区のマンションに住む飲食店店員の姉妹が刺殺された。
事件前日未明、姉妹が住む部屋の電気が停電し、配電盤のそばにいる眼鏡をかけた男を姉が発見し、勤務先の同僚や客に打ち明けていた。

2005年11月17日午前2時半ごろ、仕事を終えて帰宅した姉(当時27歳)がドアを開けた瞬間に背後から襲撃、ナイフで胸を突き刺し強姦した。約10分後に帰ってきた妹の胸も刺し、陵辱。その後、ベランダでたばこを吸った後に姉妹の胸を再び突き刺してとどめを刺し、室内に放火し金品を奪ったうえ逃走した。2人は病院に運ばれたが搬送先で間もなく死亡した。

大阪府警は同年12月5日、建造物侵入容疑で加害者を逮捕し、12月19日には強盗殺人容疑で再逮捕した。凶器のナイフは犯行現場マンションに近い神社の敷地内の倉庫で発見された。この逮捕で、犯人が山口母親殺害事件を起こしていたことがメディアで取り上げられた。
警察の調べに対し加害者は「母親を殺したときの感覚が忘れられず、人の血を見たくなった」「誰でもいいから殺そうと思った」と述べた。

法廷に2万2796人分の、犯人に死刑を求める嘆願書が提出された。これは殺された姉妹の友人たちが集めた異例のもので、これを見せられ「どう思う」と検察官に問われても、少年は「何も」としか答えなかった。

10月31日、殺害された姉妹の遺族が極刑を求めた。
11月10日、検察側は死刑を求刑し弁護人権限で控訴するが、加害者本人が控訴を取り下げ、死刑が確定した。
2009年7月28日、大阪拘置所にて死刑が執行、執行時年齢25歳であった。

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●平成13年 広島一家失踪事件


一家心中と処理されたが、真相は..?
出典 amanaimages.com


広島の一家失踪事件が起こったのは平成13年6月4日。
まずはこの解決した超不気味な事件で失踪した家族構成から詳ご確認いただきたい。

■失踪した山上家の家族構成

夫・山上 政弘(当時58)
妻・山上 順子(当時52)
祖母・山上 三枝(当時79)
娘・山上 千枝(当時26)
※他に愛犬の「レオ」

続いて、広島一家失踪事件の詳細を。

母親の山上順子さんはその日、勤務する採石会社の社員旅行で、中国に向けて出発することになっていたが、約束の正午になっても集合場所に姿を見せなかった。これを不審に思った同僚が正午過ぎに山上家を訪れたところ、もぬけのからになっていたと言う。また、早朝に新聞配達員が訪れたときには、夫・正弘さんの車がなくすでに家中に人の気配もなかった。

一家の中で、最後まで消息が判明しているのは千枝さんである。 千枝さんの勤務先は、世羅町から約30km離れた、瀬戸内海沿いにある同県竹原市の市立竹原小学校である。前日の3日は日曜参観日で、千枝さんは、担任をしている1年生のクラスで 図工の授業を行ったあと、午後3時ごろまで、PTAの球技大会に参加した。その後、竹原市内の飲食店で行われた、PTAの親睦会にも出席している。彼女は、同市内のアパートで一人暮らしをしていて、4日は前日3日の振替休日だったが、その日のうちに千枝さん一家が失踪したという連絡が、警察から校長に入った。翌5日から、千枝さんにとっての初めての無断欠勤が続いた(広島県教育委員会は同年12月20日、欠勤が6ヶ月以上続いているとして、千枝さんを分限免職とした)。


順子さんのバッグには、旅行代金15万円が入ったまま残されており、一家の定期貯金も手つかずのままである。順子さんと千枝さんの携帯電話と免許証、政弘さんのポケベルも置いたままである。普段は畳んであり、パジャマが見当たらなかった。布団のシーツは乱れていないので、就寝前にパジャマ姿で出かけたとみられる。母屋の台所と廊下の電灯がついたままで、レンジで温めれば食べられるように朝食の準備もしてあった。

しかし、玄関の鍵はちゃんと締めてあり、家の内外で争った形跡もなく、血液反応も出ていない。 玄関からは、4人分のサンダルがなくなっていた。

ということは、パジャマ姿のまま、サンダル履きでの失踪ということになる。しかも、犬まで連れてである。そこまで追い詰められていたとすれば、考えられるのは金銭的トラブルなどによるメ夜逃げメであるが、 政弘氏には2000万くらいの預金があり、借金もなかったので金銭絡みのトラブルは考えられない。自宅登記を確認するも、金銭貸借はなし。


同事件は失踪から1年程が経過した、2002年9月7日に解決に向かう。

世羅町にある京丸ダムの湖底で、通行人が車が裏返しで湖底に落ちているのを発見、車のナンバーからYさん所有の車と判明し、車内から4人と愛犬の遺体が見つかった。雨不足によって水位が減少したことが車の発見に繋がったのである。

甲山署は・遺体に目立った外傷がないこと・車のキーがささったまま・転落したと思われる場所の入り口には車止めがあり誤って進入する場所ではないことや、関係者への事情聴取から納得いく動機が判明したこと等から、無理心中と判断した。

引用:【謎の未解決事件】

こうして広島一家失踪事件は解決したわけだが、現在もなお「解決した超不気味な事件」として語り継がれることとなる。

あくまで警察は“無理心中”と判断しているが、この解決した超不気味な事件はあまりにも不審点が多い。

では、この解決した超不気味な事件における不審点について解説する。

この解決した超不気味な事件として知られる「広島一家失踪事件」には不審点が多い。

それらの不審点は以下のとおりだ。

玄関の鍵は締まったままだった
なぜか勝手口の鍵だけは開いていた
侵入や争った形跡がなく血液反応もない
順子さんのバッグには旅行代金15万円が入ったままだった
山上一家の定期貯金は手つかずのままだった
順子さんと千枝さんの携帯電話と免許証、政弘さんのポケベルは置いたままだった
順子さんの旅行バックは準備されていた

更にこの解決した超不気味な事件は、パジャマが見当たらなかったのである。つまり、一家はパジャマ姿のまま何も持たずに家を出たことになる。

そのような状態で無理心中するのは考えにくい。

この解決した超不気味な事件を推測するに、仮に無理心中だったとするならば家族それぞれが生きた状態でダム湖に突っ込んだのではなく、夫・政弘さんが家族を殺してから突っ込んだのではないか。

しかし、争った形跡がなく血痕などが見つかっていないことから、政弘さんが家族を殺めたという線も弱くなってしまう。

殺人、偽装、無理心中・・・考え方が何通りもあるこの解決した超不気味な事件。

あなたならどのように推理するだろうか。

広島一家失踪事件は今後も「解決した超不気味な事件」として注目され続けるはずだ。

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