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謎多すぎ...世界で起きた不気味な事件まとめ #2

ぞくっとするほど恐ろしく、あまりにも謎めいた日本・海外の事件をまとめました。その2。


●平成3年 三重小2女児失踪事件


ミユキ カアイソウ カアイソウ..
出典 www.gettyimages.com


三重の女児・ゆきちゃんが失踪したのは午後2時ごろだった。ゆきちゃんは友達と別れて自宅に向かう。

午後2時30分ごろ、パート勤務のゆきちゃんの母親が「帰宅が遅くなる」と自宅に電話をかける。その時、その電話に出たのはゆきちゃん。つまり、この時点ではまだゆきちゃんが自宅にいたことになる。

午後3時30分ごろ、ゆきちゃんの姉が帰宅。しかし、自宅にはゆきちゃんの姿はなかった。ただし、テーブルにはまだ温かい飲みかけのココアが置かれており、いつもゆきちゃんが愛用しているピンクのジャンパーと、自転車が家に残っていたのだという。

午後4時30分前、自宅で就寝していた父親が起床。ゆきちゃんがいないことに気づいていたものの、遊びに出かけていると思い不審に思わなかったという。そして、帰宅した長女(ゆきちゃんの姉)と入れ違いで出勤。その後、母親が帰宅した。

午後8時ごろ、ゆきちゃんが一向に帰宅しないため、母親が心配になって警察に捜索願を出した。

そして、ゆきちゃんが失踪してから3年後、「カアイソウ」で有名な怪文書が届く。

その差出人は不明だったが、失踪事件の犯人は「トミダノ股割レ」なる人物だと告発する内容だったのである。


ゆきちゃんが失踪してから3年後に届いた謎の「怪文書」は、解読することが困難な不気味なものであった。

怪文書は漢字をはじめ、ひらがな、カタカナが入り混じった独特の文章になっており、数々の暗喩が用いられているため、どういった内容および真相を伝えようとしているのかがわからないものだった。

その怪文書を差出人は不明。

もはやこの時点でも不気味なのだが、どうやらこの怪文書を送りつけた人物は、「トミダノ股割レ」が失踪事件の犯人であることを告発するため、怪文書を送りつけたものと思われる。

それでは「カアイソウ」で有名な怪文書をご覧いただこう。


ミゆキサンにツイテ
ミユキ カアイソウ カアイソウ
おっカアモカアイソウ お父もカアイソウ
コンナコとヲシタノハ トミダノ股割レ
トオモイマス

股ワレハ 富田デ生レテ 学こうヲデテ
シュンガノオモテノハンタイノ、パーラポウ
ニツトめた
イつノ日か世帯ヲ持チ、ナンネンカシテ
裏口ニ立ツヨウニナッタ
イまハー ケータショーノチカクデ
四ツアシヲアヤツツテイル

ツギニ
スズカケのケヲ蹴落シテ、荷の向側のトコロ
アヤメ一ッパイノ部ヤデ コーヒーヲ飲ミナ
ガラ、ユキチヲニギラセタ、ニギッタノハ
アサヤントオもう。
ヒル間カラ テルホニハイッテ 股を大きく
ワッテ 家ノ裏口ヲ忘レテ シガミツイタ。

モウ股割レハ人ヲコえて、一匹のメスにナッテイタ。
感激ノアマリアサヤンノイフトオリニ動いタ。
ソレガ大きな事件トハシラズニ、又カム
チャッカノハクセツノ冷タサモシラズニ、ケッカハ
ユキヲハッカンジゴクニオトシタノデアル
モウ春、三回迎エタコトニナル
サカイノ クスリヤの居たトコロデハナイカ
トオモウ

ダッタン海キョウヲ、テフがコエタ、コンナ
平和希求トハチガウ
ミユキノハハガカ弱イハネヲバタバタ
ヒラヒラ サシテ ワガ子ヲサガシテ、広い
ダッタンノ海ヲワタッテイルノデアル

股割れは平気なそぶり
時ニハ駅のタテカンバンニ眼ヲナガス
コトモアル、一片の良心ガアル、罪悪ヲ
カンズルニヂカイナイ
ソレヲ忘レタイタメニ股を割ってクレル
オスヲ探しツヅケルマイニチ

股ワレワ ダレカ、ソレハ富田デ生レタ
コトハマチガイナイ
確証ヲ?ムマデ捜査機官に言フナ
キナガニ、トオマワシニカンサツスルコト
事件ガ大キイノデ、決シテ
イソグテバナイトオモウ。
ヤツザキニモシテヤリタイ
股割レ。ダ。ミユキガカアイソウ
我ガ股ヲ割ルトキハ命ガケ
コレガ人ダ コノトキガ女ノ一番
トホトイトキダ


このように解読できる箇所はあるものの、全体的な解読は非常に困難。

おそらく遠まわし、もしくは暗号のような文章になるよう、このような形になったと思われるが、それはやはり犯人が相当マズイ人間ということなのだろうか。
カアイソウ以外にも不気味な点が・・・

この失踪事件の真相は謎に包まれたままである。

カアイソウで有名な怪文書も大変不気味なものであるが、それ以外にもややおかしな点がいくつかある。

そのひとつは怪文書を送りつけた人物が「ミゆキサン」と記している点だ。

言うまでもなく、失踪したのは「ゆきちゃん」であり、「みゆきちゃん」ではない。なぜに“み”を付けたのかは謎。

さらにゆきちゃんが外出した時、常々愛用していたピンク色のジャンパー、そして自転車が自宅に残っていた点も疑問が残る。

また、ゆきちゃんはいつも下校時には友人と遊ぶ約束をしていたが、失踪当日は「別の約束があるから遊べない」と断っていたとのこと。

そして、カアイソウで有名な怪文書が届いてからしばらくした後、不気味な手紙が届いている。

その手紙は福岡県に暮らす緒方達生と名乗る人物からの捜査を協力するという内容で、ゆきちゃんは既に死亡しており、ゆきちゃんの霊の協力を得てダウジングで遺体を捜索するというものだった。

またその手紙には、犯人はゆきちゃんの顔見知りで、男女二人の犯行だと書かれていた。なお、これは先に送付された怪文書の内容と一致している。

ところが、この手紙が届いた3日後、同じ人物から再び手紙が届き、そこには「ゆきちゃんの霊を邪魔する別の霊が現れ、捜査に協力する事は出来なくなった」と書かれていたという。

はたしてカアイソウで有名な怪文書、そしてそれに続いた手紙は何だったのだろうか。

単なるイタズラだったのか?
それとも真相が隠された貴重な文書だったのか?

いや、もしくは犯人が送りつけたものとも考えられる。

いずれにしても、同失踪事件の真相は謎に包まれたままだ。

https://goo.gl/xb9pBn


●平成9年 東電OL殺人事件


大企業に勤めながら夜の闇に消えていった女性
出典 www.amazon.co.jp


1997年3月8日深夜、渋谷区円山町の古ぼけたアパートの一室で、女性が絞殺された。被害者・渡邉泰子は、昼間は東電のエリートOL、夜は売春婦という2つの顔を持っていた。逮捕されたのは、現場の隣のビルに住んでいたネパール人、ゴビンダ・プラサド・マイナリ。この部屋のカギを預かっていたこと、以前にこの女性を買春していたことなどから、事件発生の約2カ月後に強盗殺人容疑で逮捕された。

被害者・渡邉泰子は、「5時に東電を退社して6時過ぎに渋谷の円山町に現れ、神泉駅を12時34分に出る終電車に乗り込むまでの約6時間のなかで、自らに課したノルマをこなすように4人の男を相手にしていた。売春客を4人見つけるまでは絶対に終電車には乗らず、客を求めて夜の円山町を徘徊した。」

「土・日や祭日は、午後0時30分頃から午後5時まで、五反田でホテトル嬢として働き、その後は深夜まで、円山町のラブホテル街に立って、直引き(じかびき)の売春をしていた。」

『ねえ、お茶しません、ねえ、お茶しません』といって、必死に誘う泰子。おじいちゃんが困り切った顔をしているのに、そんなことはお構いなく........。『ねえ、遊びません、ねえ、遊びません』と大声で誘っていた泰子。円山町で有名だった。彼女が殺されて39才だと知れたとき、「そんなに若かったのか」と、みんな驚いた。彼女の体は、骨と皮だけの肉体で、老婆のようだったという。

慶応義塾大学・経済学部卒業後、東電に総合職として入社したエリート。そんな彼女が何故、勤務先から帰宅の途上、乗換駅の渋谷で降り、円山町のラブホテル街で売春をしなければいけなかったのか。

父親は東大工学部卒、東電勤務。重役になる目前に、52歳でガン死する。泰子が20歳の時である。母親は室町時代から続く名門の出で、日本女子大卒。母親の兄弟は、皆、国立大卒の医師である。恵まれた知的な家庭環境で育ったはずの彼女が、何故?


職場では浮いており、よく湯飲み茶わんを割って、満足に洗いものができなかったという泰子。母親は、夫の部下が時々家を訪れても、一度も手料理をふるまうことがなかった。通りを隔てて北側に位置する松涛とは違って、円山町は散策には不向きな場所である。泰子の殺害現場は、古びた薄汚れたアパートの一室で、長い間空き家になっており、埃だらけであったと思う。そんな場所を平気で使えたということは、〝しょおたれ"(きれい好きの反対)だったから?いや、彼女には既に心の中に深い闇があり、それが普通とは真逆の生活を強いることになったのだろう。

何故仕事を終えると、まっすぐ、母親や妹のいる永福町の自宅に帰らなかったのか。男性社会の職場の中で、女性が活躍することは、さぞかし大変なことだったと思う。優秀で上昇志向の強い女性であれば、なおさらのこと。それでも、何故、行き着く先が売春だったのか..........。彼女を奈落の底へと落とした心の闇とは何だったのだろう。

毎日の生活の中で、整理整頓をし、食事を作り、時には美味しいものを皆で食べに行き、美しい風景に感動し、本を読んで、また映画をみて、登場人物たちに感情移入し、そして、芸術作品を見て、自分の凡庸さを痛感する。そんな日常生活を送る人は、普通の人。上にも下にも余りぶれない。

母親は、娘が売春をやっていることを知っていた。泰子は、家庭や職場でどのような存在であったのだろうか。金に汚く、吝嗇であった彼女は、落ちているものはなんでも拾い、道で汚れたビールびんを拾って、酒屋に持ち込んで5円と交換する。たまった小銭はコンビニで、100円・1000円と逆両替する。

東電OL殺人事件は、被害者・渡邊泰子の特異性がマスコミを賑わしただけでなく、その強盗殺人犯として逮捕されたネパール人青年の冤罪事件としても、人々の記憶に残ることとなった。

被疑者ゴビンダさんは一貫して無実を訴える。2000年4月、一審の東京地裁は、「状況証拠にはいずれも反対解釈の余地があり、彼を犯人とするには合理的な疑いが残る」と無罪を言い渡す。だが、同年12月、二審の東京高裁は、同じ証拠を正反対に評価する形で逆転有罪とし、無期懲役を言い渡す。2003年10月、最高裁でも無罪の主張は退けられ、刑が確定。無実を主張し続ける彼は、30歳から45歳までの15年間、獄中生活を送ることになる。

彼の無実を信じる多くの人たちの支援によって、2012年6月7日、ゴビンダ・プラサド・マイナリ受刑者の再審(裁判のやり直し)が決まった。同時に「刑の執行停止」も決まった。この決定によって、横浜刑務所に無期懲役で収監されていたゴビンダ受刑者は、横浜入管に移送され、6月15日に故国ネパールに18年ぶりに送還された。11月無罪判決が確定。


再審を求める過程で、 2011年(平成23年)7月、東京高裁の再審請求審で、弁護側の要請により、東京高裁は、現場で採取された物証のうちDNA鑑定をしていないものについて実施するよう検察側に要請。検察がDNA鑑定を実施した結果、被害者の体内に残っていた精液から、ゴビンダさん(B型)とは別人のO型男性のDNAが検出された。同時に、現場に残された体毛にもこのDNAと一致するものがあった。なお、この新たに見つかったDNAを持つ人物は警察のデータバンクにはなく、現在のところ割り出すのは困難であるとのこと。この男性Xが誰でいつ部屋に入ったかは特定できていないが、事件発生に極めて近い時間に、この部屋で被害者の女性と性的関係をもっていた、との推定が成り立つことになる。

検察は、被害者の胸から第三者のものである唾液が検出されていたにもかかわらず、裁判において証拠開示をしていなかった。この唾液は被告人の血液型B型と異なるO型だった。そのため、弁護側から「判決に影響を与えた可能性があるにもかかわらず、証拠を提出しなかったのは証拠隠しだ」という指摘がなされている。警察や検察の証拠隠し、隠蔽(いんぺい)体質が冤罪事件の元凶(がんきょう)であることは、周知の事実である。

東京高裁において一審判決を覆してゴビンダさんを有罪とした高木俊夫裁判長は、別の冤罪事件である足利事件でも控訴棄却をした裁判長であった。

http://home.v07.itscom.net/rekinabi/page4_008toden.html


●昭和58年 デニス・ニルセン


一緒に暮らしてくれるなら、死体でもなんでも良かった
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トイレの排水管に何かが詰まっていたのである。私がこうして書くからには、詰まっていたのは人肉の筈だ。

1983年2月8日、ロンドン北部の閑静な住宅地のアパートに呼ばれた配管工は、あまりの臭いに悲鳴をあげた。ひええ。なんだよ、これ。こんなに臭いの初めてだよ。恐る恐る排水溝を懐中電灯で照らすと、どろっと腐敗した肉塊がヘドロのように浮いている。40ピースはあっただろうか。排水管からはでろでろとなにやらが滴り落ちている。
なんじゃこりゃあ。
あたしひとりでは無理です手に負えませんオエッ凄まじい臭いでありますゲエッと上司に連絡し、翌朝に人数を増やして対応することにした。
ところが、翌朝になると肉塊はきれいになくなっていた。どうやらアパートの誰かが夜中にこっそり処分したらしい。それでも底を浚ってみると、いくつかの肉片が残っていた。その一つは明らかに人間の指だった。

大至急で警察が呼ばれた。アパート住人の話では、夜中に不審な足音が階段を何往復もしていたという。その足音は最上階まで続いていて、そこに住んでいたのがデニス・ニルセンという37歳の物静かな公務員だった。

午後5時40分にニルセンは職場から帰宅した。ピーター・ジェイ警部は彼を引き止めて、下水管を調べている旨を告げた。
「下水管が詰まったぐらいで警察が来るとはおかしいですね」
「いや、実はですね、かくかくしかじかなんですよ」
「まさか、そんな…なんて恐ろしい…」
「お宅の部屋を拝見してもよろしいですか?これも仕事なもんで」
ニルセンの部屋に踏み込んだ警部はすぐに臭いに気づいた。長年の経験で判る。人間の腐敗臭だ。
「おい、しらばっくれるのもいい加減にしろよ!残りの死体は何処にあるんだ!?」
ニルセンはもうとっくに観念していたようだ。振り返るなり、顔色一つ変えずに答えた。
「ポリ袋2つに詰めて洋服ダンスにしまってあります。お見せしましょう」
玄関を入ってすぐの部屋に案内すると洋服ダンスを指差し、警部に鍵を手渡した。腐敗臭はますます酷くなる。むせ返るほどだ。扉を開けることを躊躇った警部は、ニルセンに尋ねた。
「死体はひとつか?それともふたつか?」
ニルセンはやはり顔色一つ変えずに答えた。
「1978年から数えて、15、6あります」


デニス・ニルセンは1945年11月23日、スコットランド東部のフレイザーバラという漁村に生まれた。父親はノルウェーの兵士で、ニルセンが3歳の時に家を出ている。大酒飲みだったようだ。また、母方の親類に精神異常者や自殺者が多いことも指摘されている。閉鎖的な漁村では近親婚が当り前のように行われていたらしい。もっとも、そのこととニルセンの犯行との因果関係は不明である。

6歳の時、父親代わりだった祖父が死んだ。しかし、母親はニルセンに死の意味をきちんと教えなかった。祖父の遺体を眼にしたニルセンは眠っているのだと思った。そして、埋葬されても、いつか帰って来るのだと思っていた。だから、二度と帰って来ないことを悟った時は愕然とした。
「私の問題はその時から始まった。私の感情は永遠に失われてしまった。それからの私は常に心の中で祖父を探し求めてきた」
もともと内向的だった彼は、ますます孤独になっていった。一人海を見つめながら、ぼんやりと過ごす毎日だった。

10歳の時、彼はこのようなことを経験したと語っている。
波打ち際で一人遊んでいると、浜辺にいた年長の少年が1本の棒を砂浜に突き立てた。すると突然、ニルセンは大波に足をすくわれて、海中に引きずり込まれた。
ふと目を覚ますと、ニルセンは砂浜に横たわっていた。どうやら浜辺にいた少年が助けてくれたらしい。衣服はまわりに散乱しており、ニルセンの胸には少年の精液が残されていた。
ニルセン自身もこれが現実なのか空想なのか判別できないという。いずれかはともかく、ニルセンの犯行を紐解く上で極めて興味深いエピソードである。

15歳で軍隊に入隊したニルセンは、己れがホモセクシュアルであることを自覚し始めていた。しかし、彼はそのことに罪悪感を抱き、隠し続けた。そして、オナニーにより満たされぬ欲望を充足した。そのオナニーの方法が特筆に値する。彼は自らの裸身を鏡に映してオナニーしていたのだが、鏡に映った肉体を死体だと空想していたというのである。つまり、彼は内気な反面で極度のナルシストであり、死体愛好家であったのだ。

軍隊生活も終わりに近づいた1972年の夏、ニルセンは部下の青年に恋をした。青年も彼を兄のように慕い、2人で映画作りに熱中した。中でも特にニルセンのお気に入りだったのは、青年を死体に見立てたフィルムだった。しかし、それは現存しない。除隊と共にニルセンが焼いてしまったのだ。内気な彼は恋心を遂に告白することが出来なかった。なんだか乙女チックな話だが、反面でトンデモない話でもある。

除隊したニルセンは、軍隊時代のような楽しい仲間と出会うために警察官になった。ところが、軍隊と警察では勝手は違った。軍隊は若者ばかりだが、警察は年寄りばかりなのだ。わずか11ケ月で辞職して、職業安定所の事務員になった。結果として、このことが一連の犯行の間接的な原因となった。彼の犠牲者のほとんどは職業安定所に足しげく通うホームレスだったのである。

犯行の直接的な原因となったのは、1975年の中頃から始まったデヴィッド・ギャリハンとの同棲生活である。もっとも、2人の間には性的な関係はなかったらしい。ニルセンは10歳年下の若者と暮らすだけで満足していた。ところが、幸せな日々は長くは続かなかった。1977年5月にギャリハンが出て行くと、ニルセンは圧倒的な孤独感に打ちのめされた。誰でもよかった。一緒に暮らしてくれるのならば、死体でもよかったのだ。


孤独の中でニルセンのオナニーはますます異常なものになっていった。鏡に映った自分がよりいっそう死体に見えるように、顔に白粉を塗り、唇を青く塗り、眼をこすって血走らせた。それからTシャツに弾創を作って血を滴らせ、口からも血を流した。
ニルセンは想像した。私はナチスの親衛隊に撃たれ、森の中に放置されている。そこに年老いた隠者が通りかかった。彼は私を裸にして、身体を洗い浄める。陰茎を縛り、肛門に詰め物をすると、穴を掘って埋める。後日、彼は私を掘り起こし、手で愛撫する。私の陰茎ははち切れんばかりに勃起し、そして遂に射精する…。
このストーリーにおける「年老いた隠者」とは、おそらく祖父であり、彼自身でもある。このおぞましき儀式の中で、ニルセンは既に殺人者であるも同然である。

この直後、ニルセンは最初の殺人を犯す。クリスマスをたった一人で過ごした彼は、せめて新年だけは誰かと一緒に迎えようと夜の街に繰り出した。そして、18歳のアイルランド人(氏名不詳)を自室に迎えた。1978年12月30日のことである。
ニルソンは新年もここで過ごすように勧めた。ところが、彼には別の予定があった。どのようにして殺したのかは憶えていない。とにかく、気がついたら彼は死んでいた。
ニルセンはこの死体と年を越し、8月まで共に暮らした。切断して処分することも幾度となく考えたが、
「あの素晴らしい肉体を損ねるような真似は出来なかった」
死体を洗い浄めると、衣服を着せ、共にテレビを見て、夜になると添い寝した。それから床下に隠し、そのまま8月まで放置したのである。さすがに腐臭が凄まじいので、庭に運び出して焼却した。その際にゴムも一緒に焼いて臭いを誤魔化したというから、なかなか抜け目がないニルセンである。

以後、数ケ月に1人のペースでニルセンは犯行を繰り返して行く。犠牲者はたいてい氏名不詳のホームレスだった。
逮捕された頃のニルセンは、既に現実の世界に住んではいなかった。死体と共に鏡の中の空想の世界に住んでいたのである。最後の犠牲者スティーヴン・シンクレアとの思い出を、彼は手記の中でこのように記している。

「私は鏡の中の2人の肉体を見つめた。彼は私より青白く見える。私は自分の全身に白粉を塗った。2人はそっくりになった。彼の肉体は素晴らしかった。私はただひたすらに鏡の中の2人を見つめていた」

そんな訳だから、現実の世界に戻って死体を処分する作業は苦痛だったそうだ。酒を呷り、酔った勢いで解体していたようである。

ニルセンは立証可能な6件の殺人と2件の殺人未遂で有罪となり、終身刑に処された。
本件はジェフリー・ダーマーの事件に似ているが、その手触りはあまりにもかけ離れている。ダーマーが肉食ならば、ニルセンは草食という感じだ。そして文学的である。彼の生涯はそっくりそのままゲイ文学の題材になってもおかしくない。

https://www.madisons.jp/murder/text/nilsen.html


昭和19年 アナタハン島事件


1人の女を取り合った男たち
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以下の登場人物は仮名とする

―孤立した南の楽園―
1944年、アナタハン島という南国の小島でコプラ園を営むため、崇子が夫と共に移り住んだのは、彼女が23歳のことだった。すでに太平洋の島々は戦火に覆われている激しい時代だったが、この島にはまだそのかげりはなかった。
6月13日、アメリカ軍の爆撃機アナタハン島に襲来し、島を焼き払った。だが農園の一部とわずかな家畜は残り、取り残された崇子と隣家の上司である菊太郎がなんとか生きていけそうな蓄えは残されていた。

2週間ほどたったころ、命からがらこの島に泳ぎついた31人の日本の男たちが上陸してきた。彼らは爆撃の被害を受けた船団に乗りあわせていた人間で、陸軍、海軍、漁師など様々な立場の人間だった。崇子と菊太郎はこれをこころよく迎えた。心細いこの状況で、同朋と会えたのは大きな慰めであった。

しかし食料はすぐに底を尽きた。彼らは生きるためにコウモリやトカゲを捕らえ、料理は崇子がした。

まずは全員が生きることが最優先で、食べ物を求めるために駆けずりまわる生活に、身だしなみなど関係なかった。まるで原始人のような生活で、男たちはほとんど全裸、崇子も上半身をあらわに腰ミノひとつという姿で島を歩きまわった。

―女の略奪戦―
しかしそんな生活にもいつしか馴れ、余裕が出てくると、たったひとりの日本人の女である崇子をめぐって32人の男たちの争いが始まろうとしていた。

菊太郎が崇子の夫ではないことが判ると、女の争奪戦は表面化してきた。さらに現地人から蒸留法を習ってつくったヤシ酒が、本能に火をつける。

崇子は自分に身の危険がおよぶ恐れを感じ、上司の菊太郎に助けを求めるかたちで同棲を始める。菊太郎も所詮男であり、一緒に住むようになると女を独占する欲望が吹き出し、他の男と口をきいただけで崇子を殴り、蹴りとばした。

崇子は菊太郎の嫉妬と暴力に耐え切れず、岡田と肉体関係を持った挙句、駆け落ちして山中深く逃げだしてしまう。しかし二人は31人の男たちに連れ戻され、男たちの崇子の奪い合いは激化した。

すでに日本は原爆投下され、終戦を迎えていたが、アナタハン島の形を変えた戦いは続いていた。

1946年、崇子は山中でB29の残骸を発見し、食料や水を手に入れた。知らせを聞いた男たちは喜んで物資を分けた。

しかし、それとは別に拳銃が3挺見つかった。3挺のうちひとつは銃口が詰まっていて使えなかったため、残る2挺は銃器に詳しい佐々木と、その親友の田口が管理することになった。


―悲劇の撃鉄―
まず日頃から崇子にしつこく言い寄っていた野村が、ちょっとしたいさかいで佐々木に射殺される。まわりの男たちは佐々木を非難したが、銃を取りあげたりはしなかった。佐々木は銃をかざして独裁者気取りになり、あからさまに崇子にべたべたするようになる。

ある日、佐々木は崇子に
「俺の女になれ。ならないなら、菊太郎は殺す」
と脅した。

崇子がそれをそのまま伝えると菊太郎はふるえあがり、
「あいつのとこへ行け。俺は殺されたくない」
と言い放った。

同じ部屋の中で崇子は、佐々木、田口、菊太郎との4人での生活をすることになる。しかし不自然な関係が長く成立するはずもなく、口論の末、田口が佐々木を撃ち殺した。

生命の危険を感じた菊太郎は、先手を打って崇子を品物のように田口に譲りわたした。その約3ヵ月後、田口は不審死をとげる。

拳銃2挺は遠藤という男に渡る。今度は崇子、菊太郎、遠藤の3人の生活が始まった。その1ヵ月後、遠藤は菊太郎を射殺した。

一人の女をめぐり島には不穏な空気が満ちた。もはや銃を持つ者が崇子をものにできる権利があり、殺すか殺されるか、という一触即発の雰囲気であった。だがまもなく、遠藤も不審な溺死をする。

この異常な事態の収拾のため、長老格で発言権のあった福森が、
「崇子さんに正式な夫を選んでもらおう。そしてみんなでこれを祝福して、もう邪魔はいっさいしないと約束しあおう」
と提案する。

崇子はもう男はこりごりだったが、仕方なく最初に駆け落ちした岡田を選んで結婚した。拳銃はみんなの承諾を得て、海中深く沈めた。

しかし文明から遠く離れた男たちにとって、崇子をあきらめることなどできなかった。獣性をあらわにした男たちは新居を覗き見、うろつき、岡田のいないところで崇子を追いかけまわした。

限界を感じた崇子は一人で逃亡した。もう耐えられなかったのである。男たちは崇子をアメリカ軍に獲られてなるものかと、狂ったように島中を探しまわったが、ついに彼女は逃げおおせた。

1950年、既に終戦から5年が経っていた。アメリカ海軍船「ミス・スージー」は腰ミノひとつで白い布を振って、しきりに助けを求めている崇子を発見する。このとき彼女は28歳になっていた。

帰国した崇子を待っていたのは、暖かい慰めの言葉ではなく「アナタハンの毒婦」という猟奇的な恣意だった。真実は、興味本位のマスコミと大衆によって完全につぶされ、翻弄された挙句、戦争の犠牲者として扱われなかった。

崇子は、失意のうちに故郷へ帰った。

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大正6年 東京市マゾヒズム妻殺害事件


「あたしを愛してないの」?
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1917年、大工職人のKから「妻が弱ってるので、診てやってください」という連絡がはいり、医者が往診に行ったところ、妻のYの体は硫酸で全身が焼けただれ、指を切断された恐ろしい姿でうなっていた。
硫酸火傷があまりに広範囲にわたっていたため、ほどなくしてYは死亡した。

検死の結果、Yは全身傷だらけで、腰からヒザにかけては22箇所の傷が二列にわたって付けられ、陰部には左右に3つずつ、6箇所の傷が並んでいた。また「K妻」という焼け火箸による文字が、背中と右腕に3箇所も書かれていた。左足の薬指、右足の中指と小指がなく、左手の薬指と小指は第二関節から切断されて無くなっていた。

警察はYが花柳界出身で男の出入りが激しかったことから、夫の嫉妬による虐待死とみて捜査した。
しかし、Kの供述は驚くべきものだった。
―女の喜ばせ方―
Kは所帯があったが、Yに出会ってからは家族を捨て、同棲をはじめた。しかしYには密通癖があり、Kとはきわめて仲がいいにもかかわらず、陰部が疼くと見境なく男をくわえこんでいた。そのたびYは泣いて詫び、Kは知能が低く愚鈍だったためそれを許した。

あるときYは、詫びのしるしだと言って、焼け火箸で自分の背中に「あなたの名前を書いて」と懇願する。Kは嫌だと言ったが、Yは身をよじって懇願する。しかたなく、背中に「K妻」と書いた。肉の焼ける臭いでKは気分が悪くなったが、Yはなんとも言えない表情で満足していたという。

この頃からYは本格的なマゾヒズムに目覚め、一日に何度も夫に性交を求めては、手足の指を切断することを強要する。いやだと言うと、「あたしを愛してないの」と詰めよられ、仕方なくKは協力する。

まな板に手を乗せ、ノミで自分の指を切り落としにかかるが、女の力ではなかなか骨は切れない。そこでやむなくKが、金槌で叩いて断ち切ってやるのである。

右腕の火傷については、腕を上げても下げても見えるように書いてほしいと言われて2箇所に書き、次には内側からも見えるようにしたいから、と云われて3箇所目も書いたと証言した。ほとんど妻のいいなりである。

Yは、「傷つけるのは愛のしるし」と言い、Kも「なるほどそんなもんか」と思っていたらしい。
Kは懲役10年を求刑されたが、判決を待たずして脳溢血で獄死した。

http://jijikenn.blog.fc2.com/blog-entry-160.html


●昭和53年 リチャード・チェイス


犬猫の内臓をミキサーにかけ、コーラで割って飲んだ、美味い
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1950年5月23日、カリフォルニア州サクラメント中流家庭に生まれたリチャード・チェイスは、少々内気ではあるが、ごく普通の子供だった。しかし、12歳の頃に、まず母親がおかしくなった。「浮気をしている」「麻薬をやってる」「私に毒を盛っている」などと夫をなじった。毎日のように続く両親のいさかいに巻き込まれて、チェイスの心は次第に蝕まれていった。ハイスクールに通う頃には酒に溺れ、マリファナを常用していた。

卒業後は職についたが、長続きしなかった。大学に進学してみたが、やはり続かず、既に離婚していた両親の家を行ったり来たりしてブラブラしていた。まもなく、自分の血がどんどん薄まっていると信じるようになり、
「誰かが私の肺動脈を悪用している」
などとワケの判らないことを病院に訴えた。1973年の時点で、精神科医は彼が重度の精神障害を負っていると診断したが、両親はそのまま放置した。

1976年、ウサギの内臓を生で食べた彼は、中毒症状を起こして病院に担ぎ込まれた。そして、そのまま精神科に送られた。その奇行は院内でも評判になった。つかまえた小鳥の頭を喰いちぎり、顔やらシャツやらを血まみれにしてウロウロしているところをしばしば目撃されている。看護師たちは彼を「ドラキュラ」と呼ぶようになった。
チェイスがドラキュラになったのには理由があった。彼は「誰かに毒を盛られたために血液が粉になってしまうので、血液を補充しなければならない」との妄想に囚われていたのだ。投薬によって症状は次第に落ち着いたが、完治したわけではなかった。薬を服用し続けることを条件に、主治医は彼を退院させた。しかし、まるでゾンビのような息子の状態を案じた母親は、薬をやめさせてしまった。そのために、症状はどんどんと悪化して行った。


本来なれば母親の保護下に置かれなければならなかったチェイスであるが、月246ドルの社会保障を得て、アパートを借りて一人暮らしを始めた。
かくして、キチガイが野に放たれた。
チェイスが暮らす地域では、犬や猫のペットが続々と行方不明になった。その内臓をミキサーにかけ、コーラで割って飲んでいたのである。母親はこうした奇行を知りながらも放置していた。犬を買う金も工面してあげていたというから呆れてしまう。
1977年8月3日、チェイスはタホ湖のそばで逮捕された。体中血まみれで、車の中にはライフルとバケツ一杯の血があったのだから当たり前である。しかし、その血は牛のものであることが判明したため、このキチガイは釈放された。
ウサギから犬、牛へと進化して行った。人間までもう少しだ。

同年12月29日、22口径のリボルバーを手に入れたチェイスは、車の中からアンブローズ・グリフィンを射殺した。それは、いわば予行練習だった。

年が明けて1978年1月23日、チェイスは妊娠3ケ月だったテリーザ・ウォリンの家に侵入した。射殺した後、腹を切り裂き、ヨーグルトの容器で血をすくって飲んだ。そして、腸を引き出し、臓器を切り取った。その後、何故か排便した彼は、その排泄物を被害者の口に押し込んでいる。キチガイのやることは判らない。これも何かの儀式なのだろうか。

4日後の1月27日、チェイスはイヴリン・マイロスの家に侵入した。彼はイヴリンと、6歳になる息子のジェイソン、友人のダニエル・メレディスの3人を射殺し、甥で、まだ2歳にもならないマイケル・フェリエラを連れ去った(逮捕後に、首を切り取られた遺体がゴミ捨て場で発見された)。イヴリンもテリーザと同様に腹を切り裂かれ、血を飲まれていた。


翌日の1月28日、目撃者の通報を受けてチェイスのアパートに踏み込んだ警察は仰天した。床から壁から家具からベッドから浴室から台所に至るまで、部屋中すべてが血みどろだったのだ。冷蔵庫には、動物や人間の臓器が山ほど保存されていた。そして、ベッドの上には、子供の脳が置かれていた。
部屋に貼られたカレンダーを目にした警察はゾッとした。犯行があった1月23日と27日の他に、その年だけで44日にマークがしてあったのだ。チェイスはまだまだヤル気まんまんだったのである。

死刑を宣告されたチェイスに面会したロバート・K・レスラーは、その時の模様をこのように記述している。

チェイスは殺人を犯したことは認めたが、それは自分の命を守るためだったと主張した。(中略)チェイスによると、彼の命は「石鹸箱の毒」によって危険にさらされているということだった。
石鹸箱の毒とはどんなものか知らないと言うと、彼は説明してくれた。誰もが石鹸箱を持っている。石鹸を持ち上げてみて下が乾いていれば問題がない。だが、ぬるぬるしていたら、その人は石鹸箱の毒にやられているのだ。その毒はどんな害を与えるのかと聞くと、体内の血液を粉に変えてしまう、と彼は答えた。(中略)
彼はユダヤ教の象徴のダビデの星が額についているために、ずっとナチに迫害されてきたと言って私にそれを見せた。(中略)ナチは地球の上を絶えず飛んでいるUFOと結びついていて、そのUFOからテレパシーで、血液を補充するために人を殺せという指令がきたのだと言った。
「そんなわけなんですよ、レスラーさん。あの殺人は正当防衛だったってことがこれではっきりしたでしょう」》

レスラー氏はこの面会を通じて、チェイスは「回復の見込みのない精神異常者=責任無能力者」と確信したが、そのことは控訴審で争われることはなかった。1980年12月26日、チェイスはこっそりと溜めていた抗鬱剤を一気に飲み干したのである。致死量である。自殺だったのかも知れないし、幻聴を抑えるためだったのかも知れない。
この事件は教訓である。キチガイを野放しにしてはならない。社会のためにも、そして、彼のためにも。


https://www.madisons.jp/murder/text/chase.html


●平成3年 悪魔の詩訳者殺人事件


背後にはあの国の宗教・・・?
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1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一が大学のエレベーターホールで刺殺され、翌日7月12日に発見された。現場からO型の血痕(被害者の血液型ではないため、犯人の血液型とされた)や犯人が残したとみられる中国製カンフーシューズの足跡(サイズ27.5cm)が見つかった。

五十嵐助教授は1990年にサルマン・ラシュディの小説『悪魔の詩』を日本語に翻訳している。1989年2月にイランの最高指導者のアーヤトッラー・ホメイニーは反イスラーム的を理由に「悪魔の詩」の発行に関わった者などに対する死刑宣告を行っていたため、事件直後からイラン革命政府との関係が取り沙汰されていた。

容疑者を外国人イスラーム教徒とする説には、次のようなものがある。


CIAの元職員ケネス・ポラックは、イラン軍部による犯行を示唆している(『ザ・パージァン・パズル』小学館、2006年)。目撃されやすいエレベーターホールで襲撃した事実も見せしめ犯行のためと判断した。

また、『週刊文春』1998年4月30日号は「『悪魔の詩』五十嵐助教授殺人に『容疑者』浮上」との記事を掲載。同誌が入手した「治安当局が『容疑者』を特定していた極秘報告書」によると、事件当時、東京入国管理局筑波大学に短期留学していたバングラデシュ人学生を容疑者としてマークしていたという。この学生は五十嵐の遺体発見当日の昼過ぎに成田からバングラデシュに帰国しているが、イスラーム国家との関係悪化を恐れる日本政府の意向により捜査は打ち切られたと記事は述べている(麻生幾「「悪魔の詩」殺人 国家が封印した暗殺犯」『文藝春秋』2010年10月号)。

だが、日本警察は、なぜ目撃されやすいエレベーターホールで襲撃したのか、なぜ目撃されにくい研究室で襲撃しなかったのかなど疑問点が挙げられ、個人的な怨恨による大学関係者の犯行の線も否定できないので、犯人像をイスラーム教徒に絞り込むことはできないとしている。

捜査中、学内の五十嵐の机の引き出しから、殺害前数週間以内と思われる時期に五十嵐が書いたメモが発見された。これには壇ノ浦の合戦に関する四行詩が日本語およびフランス語で書かれていたが、4行目の「壇ノ浦で殺される」という日本語の段落に対し、フランス語で「階段の裏で殺される」と表現されていた。このことから、このメモが書かれた時点で、五十嵐は既に何者かが自分を殺そうとしていることを察知していたと言われている。

15年後の2006年7月11日、真相が明らかにならないまま殺人罪の公訴時効が成立し未解決事件となった。外国人犯人説が存在するこの事件では、実行犯が国外に居続けたと仮定した場合は公訴時効は成立していないことになるが、警察は証拠品として保管していた被害者の遺品を遺族に返還している。

http://jjiikkeenn.blog.fc2.com/blog-entry-129.html


●平成元年 SOS遭難事件


救助を要請していたのは一体誰・・・?
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1989年7月24日、大雪山系融雪沢上流の湿原にて、山麓で行方不明になっていた登山者を捜索するため、北海道県警のヘリコプターが上空を飛行していた。

するとヘリコプターは登山ルートから大きく外れた場所に、倒木を積み上げて作られた「SOS」の文字を発見したという。すぐさまその辺りを重点的に捜索したところ、遭難者を発見したのだが、事件はこれだけでは終わらなかった。

なんと発見された遭難者は、この「倒木で作られたSOSの文字を知らない」と言ったのだ。県警はまだ文字のあたりに遭難者がいたのではないかと考え、捜索を再開。すると、この文字の程近くで野生動物に荒らされた男女の白骨死体と男の荷物と思わしきもの、そして大声で助けを呼ぶ男性の声が録音されたテープレコーダーを発見した。この事件は大雪山SOS事件と呼ばれている。

この事件は発覚当時から様々な謎を呼んでいる。
まず1つはSOSの文字についてである。この文字は3本の以上の白樺の木を積み重ねてつくられていたのだが、この1文字の大きさは2メートルから3メートル程もあった。これだけの大きさの文字を作るのには非常に体力が必要だ。何故これだけの体力がありながらその場に留まりSOSの文字を作り続けたのだろうか。
次の謎は男女の白骨死体についてのものだ。白骨死体を鑑定した結果、1984年頃に遭難した登山者であることが判明し、また荷物から男性の身元を突き止めることが出来た。しかし一緒にいた女性については何の情報も得られず、何らかの事件に巻き込まれたものではないかとの憶測が飛び交った。


最後にテープレコーダーに残されていた男性の言葉である。

テープには「がけの上で身動きとれず SOS 助けてくれ がけの上で身動きとれず SOS 助けてくれ 場所は初めにヘリに会ったところ 笹深く上へは行けない ここからつり上げてくれ」(1989年の毎日新聞記事から)と吹き込まれていた。己の体力が尽きかけても助けが呼べるよう、テープに録音しておいたと考えられたのだが、奇妙なのはこの男性が助けを求めていた場所である。

先述したように、この男性がいた場所は湿原であり、近くに崖などは存在していなかった。なのに何故、テープレコーダーにこのような内容を録音しておいたのだろうか。

当時は世間を大いに騒がせた事件であるが、現代になって、次第にこの謎は解けつつある。まずは遺体の損傷が激しかったため、当初の鑑定では男女の白骨遺体と考えられていたのだが、鑑定の精度が上昇した結果、男女ふたりと思われていた白骨遺体は、実際には男性一人の物であったということが判明した。またSOSを作った理由だが、下手に動き回るよりも、分かりやすい目印を作って助けを待った方が良い、と判断したと思えば特に不思議なことはない。この2点だけを見れば、単なる遭難であった可能性がある。

だがしかし、テープレコーダーに吹き込まれた内容の謎だけは現在でも不明のままだ。仮に何者かがこの声を聞いたとしても、実際にいる場所とテープの情報が異なるため、別の場所を捜索してしまうだろう。


一説によると、『鉄腕アトム』の中にアトムが月に遭難し、月面に漂着した流木を使ってSOSを作ったエピソードが存在しており、男性はそれを真似て自殺したのではないかとも言われている。男性の荷物の中にはアニメソングが入ったテープ数本に、アニメのイラストが貼られたテープケース、イラストが描かれたノートが入っており、この男性はオタクだったのではないかと推測されていたため、このような噂が流れたようだ。だが自殺するものがアニメの真似をするのはいいとしても、遺書を残さないというのはどうにも不自然である。
そして何故、捜索を混乱させるような言葉をテープに吹き込んだのだろうか。科学捜査の発展によって、その謎が判明する日が来るのを待つしかない。

http://www.tanteifile.com/onryo/kaiki/2010/04/18_01/index.html


●平成3年 石井舞ちゃん失踪事件


家族がいた家から消えた少女
出典 amanaimages.com


1991年7月25日、福島県船引町で建築業を営む石井賢一さんの長女・舞ちゃん(当時7歳)が深夜、家から行方不明となった。事件から10年以上経った今も発見につながる情報はない。

この夜、家には賢一さんと妻ヨシ子さん、夫妻の長男、次男、舞ちゃん、それから賢一さんの両親、賢一さんの姪(当時17歳)、そして賢一さんの建築会社の従業員で姪の恋人のK(当時20歳)の9人の他、ヨシ子さんの友人の子供2人(女の子)が泊まりに来ていた。


昼過ぎ、姪は実家のある郡山市に出かけており、その後家にはいなかった。

夕方、Kの部屋で舞ちゃんたちはテレビゲームをして遊んでいた。

午後9時ごろ、舞ちゃんの祖父母は1階洋間のKの部屋の電気が消えるのを見た。また、同じ頃、2階の部屋で賢一さんは長男・次男が寝始めた。

9時20分頃、祖父母はタクシーを呼んで、カラオケスナックに行った。この時、1階玄関を施錠した。

9時30分ごろ、舞ちゃんと遊びに来ていた2人の女の子の3人が川の字となって、2階の洋間で寝た。両親や兄弟の眠る隣の部屋である。

10時30分頃、ヨシ子さんが舞ちゃんの寝ている部屋をのぞき、タオルケットを掛け直した。その後、2階の洗面所を使っていると、「バタン」と1階の玄関扉が閉まる音がしたので、窓から外を見るとKが南の方に歩いていくのを目撃した。ヨシ子さんはたいして気にも留めず、1階にある浴室で入浴した。しばらくすると、再びドアの閉まる音がして、何者かが「パタパタ」と階段を上がる音がした。そしてヨシ子さんは賢一さんや長男らの眠る部屋に行き、横になった。

翌午前2時、祖父母がカラオケスナックから帰ってくる。この時、1階の玄関のドアは開いていたので施錠した。祖父母は2階にやってきて「Kがいない」と賢一さんを起こすが、「明日聞くから」とまた寝てしまった。

午前5時20分、舞ちゃんと一緒に寝ていた子供が目を覚ますと舞ちゃんの姿がなかった。一家、パニックとなる。

午前6時30分、Kが外出先から戻ってくる。Kの話によると「夜10時半ごろ、友人に会うため郡山に向かった。船引駅に着くと、最終電車が出たばかりだったので、タクシーを拾って行った。しかし、郡山にその友人は現れず、始発で帰ってきた」というものだった。Kはその後、2週間に渡る取り調べを受けることになったが、解放されている。ちなみに郡山までKを乗せたというタクシー運転手も現れ、証言した。


現場検証の結果、この家に住む人物の以外足跡や指紋は発見できなかった。ということは身内の犯行となる。こうしたことから、祖父母、両親、Kなどが揃って疑われることになった。とりわけ、疑われたのはKとヨシ子さんである。また、警察犬を捜査に導入したところ、玄関先で立ち止まってしまった。これは車で連れ去られたことを意味する。
当日の午後11時前には石井さん宅の前の道路から東へ少し離れたところで白い車が目撃されている。この車は故障車のようにボンネットが開かれており、翌朝には消えていた。石井家周辺の車の所有者はひとりひとりあたっていったが、この白い車だけは持ち主不明だった。

舞ちゃん行方不明後、TVでの情報提供依頼など積極的に出演していた賢一さんは犯人の目星はついていた。会社で働き、姪の恋人であるKである。雇っていたものの、Kと賢一さんの仲は良いものではなかった。この日、Kは姪と一緒に旅行に行くはずだったのだが、前日に賢一さんがKに仕事を言いつけ、キャンセルさせた。そのことでKには賢一さんを衝動的に恨んだとも考えられる。また、それまでにも何度かシンナーをしていたKを賢一さんが厳しく叱ったこともあった。

賢一さんの姪は親が離婚し、荒れて暴走族に出入りするようになる。この時、知り合ったのがKである。Kは姪に賢一さんの建築会社を紹介してもらい、ここで働くようになる。しかも石井家の1階の部屋に姪と同じ部屋に住みこむようになった。

舞ちゃんが行方不明となってから2ヶ月後、母親であるヨシ子さんは当時遊びに来ていた女の子から決定的証言を聞き出すことに成功した。その内容は当日の夕方、一緒にテレビゲームをしていた時にKが舞ちゃんに「夜の12時に一緒に遊びに行こう」と言っていというものだ。両親はその証言を警察でも話したが、「無理に引き出させたもの」として相手にされなかった。



安全なはずの家から急に少女が行方不明となったこの事件、メディアでもよく取り上げられたりした。しかし、一家にくるのは無言電話やイタズラ電話ばかりで、解決の手がかりのなる有力な情報というのは届けられていない。

http://yabusaka.moo.jp/ishiimai.htm


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