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Naverまとめの記事を記録として残してます

謎多すぎ...世界で起きた不気味な事件まとめ

ぞくっとするほど恐ろしく、あまりにも謎めいた日本・海外の事件をまとめました。


●昭和34年 ディアトロフ事件


死んだ原因は政府?おそロシアな事件..
出典 www.amazon.co.jp


1959年1月、ウラル科学技術学校の学生と卒業生10名がウラル山脈でのスキー・トレッキングを試みた。彼らは男性8名、女性2名からなるグループで、全員が雪山登山の経験豊かな頑強な若者たちだった。
途中で撮影されたスナップ写真には仲良しグループならではのリラックスした雰囲気が満ち溢れていた。唯一、予想外の出来事はグループの1人、ユーディンが急病にかかり、グループから抜けて9人になったことであった。

2月2日、グループのリーダーであるディアトロフ(この峠の名前は彼から命名された)の指揮のもと、彼らは猛吹雪の中、斜面にテントを設営した。しかし、その後彼らに何が起こったのかは誰も知らない。
ディアトロフは麓の集落・ヴィジャイに戻ったら電報を送ると話しており、それは2月12日頃と想定していた。しかし1週間過ぎても何の連絡もなく、遂に捜索隊が結成された。

2月26日、捜索隊は放棄されてひどく損傷したテントを見つけた。テントの前部入口は閉まっていたが、テントは内部からナイフで切り裂かれていた。
テントを見つけた学生は、「テントは半分引き裂かれ、雪で覆われていました。中に人の姿は無く、グループの所持品や靴はすべて残っていた」と述べている。その後、捜索隊は3カ所で遺体を発見した。
まず松の木の横に2体の遺体があったが、それらはほとんど下着姿で薄い雪に覆われていた。次にリーダーのディアトロフを含む3人の遺体が付近で見つかった。彼らの身体には何の傷跡も無かったが、死因は低体温症であることが後の検死でわかった。

2カ月後、雪が溶けるにつれて残りの遺体が現れた。それらの遺体は頭蓋骨と肋骨を骨折していた。検死を行った医師によると、そのようなケガは非常に強い力でのみ引き起こされ、自動車事故と同様の衝撃と考えられるとの見解だった。遺体の1つであったリュドミラ・ドゥビニーナの舌と目が無くなっていた。また、数人のスキーウェアからは、通常では考えられないほど高レベルの放射線が含まれていた。
捜査官は報告書で、9人の死亡者は全員「克服不可能な未知の要素」によって死亡したと結論付けた。

この事件には多くの謎がある。
当時ホラート・シャフイル山とその周辺地域には、9人以外のほかの人間がいた形跡は無かった。
いくつもの説が唱えられては消えていった。すぐさま打ち消された説を列挙してみる。


1.熊の襲撃説
餌を探している野生のクマの襲撃説。しかし動物の足跡は見つからなかった。

2.原住民説
ロシアのチュメン地域の自治区に住む先住民のマンシー族が犯人ではないかという説。しかし、彼らの全財産はテントに残されていた。

3.雪男説
ウラルの山には、恐ろしいゾロタヤ・ババ(金色の女性)が潜んでいるという伝説がある。しかし雪に残された足跡は、8人ないし9人のものしかなく、暴力の痕跡も無かった。

そして、次はより信ぴょう性が高いと考えられている説だ。

4.雪崩説
雪崩に巻き込まれたという説。しかし、テント上には雪崩の兆候は全く見られなかった。またテント設営時に彼らが雪上に立てた道具があったが、捜索隊が来た時に、それは倒れておらずそのままの状態だった。このことから、雪崩があったとは考えにくい。

5.UFO説
同時期にその地域にいたハイカーのグループが、北空の夜空に奇妙なオレンジ色の球体を見たと報告している。同様の球体は異なる証人(気象サービスと軍隊も含む)によって、2月から3月までの間に隣接地域一帯で連続して観測されている。またテントで見つかったカメラのフィルムを現像したところ、最後の写真は夜の空に浮かぶ巨大な閃光をとらえているように見えるという。


6.ロシア軍の秘密基地説
軍がこの地域で秘密裏に核実験や兵器の開発をしているという噂が、以前からあった。軍のミサイル実験や低速ジェットが衝撃波や騒音を出し、ディアトロフ一行をパニックに陥れたという説である。これは、グループの2人の衣服が高い線量の放射線で汚染されていたことの説明にもなり有力である(この2人はプルトニウム工場や実験室での勤務経験があったという説もある)。

7.テント内の火事説
テントには料理用ストーブが備え付けられていた。これは外に突き出た排気管をストーブ使用後に分解する仕組みで、グループのリーダーのディアトロフが自分で造ったものであった。事件のあった夜、排気管を取り外した後に何らかの理由でストーブが再燃した可能性はある。煙は数秒でテントに充満し、彼らはパニックになり、炎と煙を消そうとしてテントを切り裂いて脱出した。彼らの遺体には火傷の痕があり、衣服が燃えている者もいたことから、この説はかなり有力と思われている。夜間、外に逃げ出したほとんどのメンバーは裸足もしくは薄着で、そのために低体温症で死亡したというものだ。しかしグループのうち3人は低体温症ではなく、何らかの衝撃によって外傷を受けて死亡している。

この事件をさらに謎めいたものにしているのは、ロシア当局による何らかの隠ぺい工作があったと思われる点である。元調査官レヴ・イヴァノフは1959年に行われ、1990年に公開された公式審問記録で、「飛ぶ発光体を見たという証言を報告後、組織の最上部からこの調査委員を解任された」と証言している。またウラル山脈ではロシア軍が秘密実験を行っていたという噂も絶えない。
なぜ、ハイカーたちの死に当局は隠ぺい工作をはかったのか。この謎が解ける日は果たして来るのだろうか。

http://tocana.jp/2017/06/post_13443_entry.html


●昭和29年 人違いバラバラ殺人事件


殺したい相手を間違えた..
出典 www.gettyimages.com


「人違いだった・・・」
1954年11月に埼玉での女性殺しで逮捕された古屋栄雄(当時29歳)はそう供述した。

古屋は1929年生まれ。故郷である山梨県東山梨郡塩山町(現・塩山市)で、7歳下のB子さんという女性と知り合って夢中になり、両親を連れてB子さんの実家に出向き、結婚を申し込んだが、前科者であること、定職がないこと、軽薄な性格であることなどから、断られた。
上京して何とか職についてB子さんの気を引こうとしたが、長続きはしなかった。増えたのは窃盗の前科だけである。
故郷に戻ると、B子さんに会いに行ったが、彼女の方は嫌気がさし、逃れるように東京や埼玉などの旅館で女中として働き始めた。それでも彼女の実家や親戚宅を尋ね歩いて、居場所を聞こうとしたが、教えてもらえなかった。

53年7月、B子さんの両親は「結婚は無理だ」とはっきり明言。娘を姉のいる埼玉にもとに避難させた。古屋は後を追いかけたが、その都度B子さんも転々としていた。
そうした生活に疲れたのか、古屋は約1年間は真面目に働いた。「あんたが真面目に職につかねばB子は出てこない」と彼女の家族に言われていたためで、映画館に勤めて看板描きやビラ貼りの仕事をした。
しかし、B子さんがすでに誰かと結婚しているのを隠しているのではないか、と邪推した古屋は、54年9月1日、町を出てB子さん探しの旅に出た。古屋の行動は、今で言うなら紛れもなくストーカーである。


9月5日夜9時ごろ、埼玉県入間郡高階村(現・入間市)の路上を歩いていた古屋は、前方にB子さんらしき女性を見つけた。体つき、歩き方、服装・・・どれをとっても間違いなく思えた。こんなところに嫁に来ていたのか、ひどい奴だ、と憤慨した古屋は、
「俺はな、お前を呪ってるんだ。覚悟しろ!」と叫んで、いきなり女性の首を絞めて畑に引きずりこみ、手拭を首に巻きつけ殺害、ナイフで乳房と陰部を切り取ってから遺棄した。

翌日、古屋は事件を報じる新聞記事を見て、殺害した女性が初めてB子さんでないことに気づいた。彼が殺害したのはA子さん(19歳)という女性で、青年団主催の運動会の帰り道で凶行に遭った。
そうしたことが判っても、古屋に反省の態度は見られなかった。11月18日に逮捕されたが、「殺しはB子さんを愛するが故にやったことだ」と主張した。

56年2月21日、浦和地裁は、無期懲役(求刑死刑)を言い渡した。この判決に「刑が軽すぎる」「俺は悪くない」と、双方控訴した。

8月21日、二審の最終尋問B子さんが証人として出廷。次のように証言した。
「古屋は私を勝手に恋人と思っているだけ」
その時、古屋は逆上し、隠し持っていた竹べらで、B子さんに飛びかかった。B子さんは胸を刺され、全治2週間の大怪我を負った。


59年5月27日、死刑執行。
収監中、古屋はそれでも周りの人間に、B子さんがいかに素晴らしい女であったかを語っていた。

http://yabusaka.moo.jp/hitochigai.htm


●平成12年 世田谷一家殺害事件


殺害してからの行動が..
出典 www.amazon.co.jp


宮沢みきおさん(44歳)、泰子さん(41歳)、にいなちゃん(8歳)、礼君(6歳)の4人暮らし。宮沢さんは外資系の経営コンサルタント会社社員で、泰子さんは自宅で「公文式」の学習塾を経営していた。

家は上祖師谷3丁目。2棟続きとなっており、隣りには泰子さんの母親と姉夫婦が住んでいた。
当時はこの住宅地に30軒ほどの家が並んでいたが、公園用地拡張事業による整備が進んだため、他の住民は次々と引っ越していった。すでに土地売買契約を済ませていた宮沢さん一家も2001年4月までに埼玉県内に引っ越す予定だった。

2000年12月31日午前10時50分ごろ、隣に住む泰子さんの母親が無惨な4人の遺体を発見した。

犯人は2000年12月30日夜、宮沢さん宅のフェンスをのぼり、浴室の高窓から侵入したとされる。網戸がすぐ下に落ちていたことや、足跡、フェンス近くの木の枝が折れていたから判った。
なんなく侵入した犯人はまず浴室のすぐ隣りの子ども部屋に寝ていた礼君に布団をかぶせて窒息死させた。続いて、1階の書斎で仕事をしていた宮沢さんが物音に気づき、階段あたりで、犯人と鉢合わせしたと見られる。宮沢さんは階段下で亡くなっていた。最後に犯人は3階のロフトで寝ていた泰子さんとにいなちゃんを襲ったとみられる。階段の踊り場付近で倒れていた泰子さんはメッタ刺しの状態だった。

犯人は抵抗する宮沢さんや泰子さんともみ合いになる中で手に傷を負い、あちらこちらで血痕を残していた。宮沢さん一家にA型はいないので、犯人はA型と見られている。犯人は自前のハンカチで止血していた。このハンカチはアイロンがかけられていたという。かなり深い傷を負ったとみられる。
血のついた包丁2本は2階の台所で見つかった。このうち1本は犯人が持ちこんだもので、刃先が欠けたため宮沢さん宅の包丁も取り出したのだろう。


また犯人はタンスやクローゼットを荒らしまわり、必死に何かを探している。月末で集まっていただろう学習塾の月謝20万相当が紛失していたが、キャッシュカード、貴金属類はなぜか手付かずだった。
浴槽には切り刻まれた書類(宮沢さんの仕事や学習塾のもの)が入れられていた。書類を一枚一枚目を通して、選別していたように見られる。浴槽には財布(現金抜き)やバッグも投げ込まれ、犯人が止血に使ったとされるタオルもあった。
そして2階居間のソファにも手帳、運転免許証、カード類が並べられていた。これは口座の暗証番号にもなる生年月日を調べていた可能性が高い。

犯人は1階書斎の宮沢さんのパソコンでインターネットにつないでいる。

接続したのは2回で最初に午前1時18分、2度目は同10時2分と泰子さんの母親が内線電話をかける直前まで、約11時間もこの家にいたことがわかる。履歴から、犯人は宮沢さんの会社のサイトや「劇団四季」のページを見ており、メールチェックもしている。「劇団四季」のサイトは宮沢さんが元々「お気に入り」に登録していたものだったが、犯人はそこから舞台のチケットを購入しようとしていたこともわかっている。
犯人はパソコンしながら冷蔵庫から取り出したアイス食べていたとみられ、カップが脇に残されていた。スプーンを使わず、カップを握りつぶすようにして食べていた。想像してみると、異常な光景である。インターネットに飽きたら、コンセント抜いて消し去っている。


【目撃情報、不審な点】


▽包丁の男
犯行に使われた柳刃包丁は「関孫六銀寿」というもので、都内では武蔵野市練馬区、杉並区で00年に10本ほど売られていた。事件前日の12月29日、吉祥寺で犯行に使われた包丁を1本だけ買った男がいた。この男は年齢30代と見られ、身長約170cm、黒いジャンパーを着ていた。

▽11時半の男
事件当日の11:30、車を運転していた主婦が宮沢さん宅の前の路地に飛び出して小走りに道路を横断したきた男を目撃(。特徴は身長175cm~180cmくらい、痩せ型、長髪で毛糸の帽子をかぶり黒っぽい服装をしていたという。


それ以外にも情報は多数届いた。

▽アオキという男
00年8月15日、「アオキ」と名乗る男が、電話で埼玉県内の興信所に「宮沢さん宅とその家族」についての調査依頼をした。しかし、「アオキノブオ」からの銀行振込みはなく、調査は開始されず。
同10月26日、「アオキ」が興信所へ2度目の電話。宮沢さんの現住所および住民票を請求した。翌日、「アオキ」は事務所に現れ、住民票と謝金を交換している。
同10月28日、「アオキ」が電話で、宮沢さんの戸籍謄本を依頼。しかし、その後連絡はなかった。


▽11時半の大きな物音
11時30分頃、近所の人が「ドスン」という大きな物音を聞く。泰子さんが屋根裏部屋から落下した音だと思われ、11時半こそが殺害時刻だったと見られる。

▽日光の負傷男
栃木県日光市東武日光駅、31日午後5時20分着の電車から降りた男が右手から出血しており、治療を受けた。男の年齢は30歳前後、身長約175cm、黒いダウンジャケットにジーンズ姿。その後の足取りはわかっていない。

▽主婦の見た男
事件の前日午後3時ごろ、現場近くの路上で、主婦が遺留品のものと似たデザインのTシャツを着た男とすれちがった。12月にしては薄着だったので覚えていたという。この男もまたヒップバッグと、「スラセンジャー」によく似たタグ付きのシューズをはいていた。この情報が発表されたのは06年11月。

▽近隣の若者説
児童公園で夜中までスケボーに興じている若者にみきおさんが注意しに行ったこともあるようだ。普段は仕事に忙しいみきおさんが若者に恨まれると言えそうな点はこれくらいだろう。


●平成8年 マルク・デュトルー事件


殺害の裏に見える小児愛ネットワークの闇..
出典 www.aflo.com


ベルギー人の自称電気工、マルク・デュトルー(Marc Dutroux, 1956年生まれ)は1989年に連続レイプ犯として逮捕され、懲役13年の判決を受けて収監されたが、模範囚であったことを理由に、わずか3年後の1992年に釈放された。その際、獄中でPTSDとなったとして政府を訴え、毎月26万円程度の医療年金を受け取っていた。

その3年後、1995年にリエージュで8歳の少女2名を誘拐し、犯人の自宅地下に監禁した。その2か月後、オステンドの海岸にバカンスに来ていた17歳と19歳の2人を拉致監禁した。この10代の2人はほどなくしてドラッグを打たれて窒息死させられたと見られている。

1995年末に犯人が車両窃盗の容疑で逮捕され、半年間刑務所に入ったため、8歳の2人はこの間に餓死したものと見られている。犯人の妻は、食事を与えるよう犯人から命じられていたが、被害者を見るのが怖くて、地下室に行けなかったとのちに証言している。

出所後、2人が亡くなっていることを知った犯人は、2か月後の1996年5月に、12歳のザビーヌ・ダルデンヌを下校途中に拉致監禁し、強姦を続けた。同年8月に、さらに14歳の少女を路上で拉致したが、このとき通行人が犯人の車を目撃したことから、4日後に逮捕された。2人の少女は救出され、犯人の妻と犯行を手伝った男2名も逮捕された。


捜査が遅々として進まない中、救出された被害者2名が証言台に立つことを決心し、2004年に裁判が行なわれ、犯人マルクに終身刑、妻と共犯者の一人にそれぞれ30年と25年の懲役が言い渡された。マルクはこの裁判で、もう一人の共犯者であるミシェル・ニウール(Michel Nihoul)が政財界の小児性愛者向け児童ポルノ・売春の秘密組織の一員であり、自分はそのために拉致監禁したと主張していたが、その証拠はないとされ、ニウールは麻薬取引の罪のみが課せられた。懲役5年の判決が出たが、2006年に釈放されている。

2012年、元妻が刑期半分で釈放の予定と発表されると、ブリュッセルで再び抗議のデモが行われたが、8月に釈放された。

捜査当初より、事件の背後に、警察関係者や政府高官などを含む富裕層向けの小児性愛ネットワークの存在が疑われていた。
2004年の裁判では、マルク自身が「一連の犯行はその組織への女性調達のため」と主張したが、判決では証拠不十分として却下された。BBCが証言者のインタビューを含むドキュメンタリー番組を制作したほか、現在も一部で根強く疑惑が囁かれているが、モラル・パニックや陰謀論とする見方もあり、真実はわかっていない。

https://goo.gl/KhjHY8




明治39年 赤毛布の男


不気味過ぎて都市伝説化..
出典 www.gettyimages.com


明治39(1906)年2月12日の早朝5時頃、福井県九頭竜川河口付近の三国町と新保村(現福井県坂井市)との間に架かる新保橋(当時は木製)を、大工の男が昨晩降り積もった新雪を踏みしめながら、仕事場へと急いでいた。
500メートルあまりある橋の中央付近に差し掛かった時、大工の目に異様な光景が飛び込んできた。
積もった雪が真っ赤に染まり、おびただしい量の血痕があたり一面に拡がっていたのである。そして、付近の欄干の一部が斧で切り落とされたように無くなっていた。大工はあわてて警察へ駆け込んで、新保橋の異常な事態を警官に知らせた。
通報を受けた三国警察署は殺人事件と判断して、捜査員を派遣して捜査を開始する。

2月11日夜の21時頃、吹雪が吹きすさぶ中、三国町上西にある廻船問屋・橋本利助商店に男が現れた。
その男は見た目35歳ぐらい。手ぬぐいをほおかむりして、さらにその上から青っぽい毛布(ゲット)をかぶるという、異様ないでたちだった。男は番頭の加賀村吉(30)に取り次ぎを願い出た。
村吉が出てみると男は「私は、新保村の加賀さんの親戚から使いとして来たものですが、『親戚のおばあさんが急病で倒れたので、すぐ来て欲しい』とのことなので、迎えにきました」と告げ、村吉を連れ出していった。

それから2時間あまりたった頃、三国町玉井にある村吉の自宅にも、青ゲットをかぶった男が現れた。男は同じように「私は使いの者ですが、新保村の親戚のおばあさんが重い病気にかかり、
『是非とも三国のおっかさんに会いたい』といっているため、『すぐ呼んで欲しい』と頼まれたので、迎えにきました」と言い、今度は村吉の母・キク(50)を外へ連れて行った。
それから1時間程過ぎると再び男が現れて、同じ方法で村吉の妻・ツオ(25)を連れ出した。
さらに40分程経つと三度男が現れて、村吉の二女(2)までをも連れ出そうとしたが、その時応対した隣家の女性(ツオに留守番と子守を頼まれて村吉家に在宅していた)が、男に不審を抱いて娘を渡すことを拒んだため、危うく難を逃れることが出来た。
(村吉には長女もいたが、その日は子守として他の家に出向いていたので無事だった)
青ゲットの男に連れ出された3人は、その後いつまでたっても戻らず、調べると新保村の親戚には誰も病人などなく、使いの者を頼んだ事実もないことが分かった。

三国警察署に置かれた捜査本部は、九頭竜川一体の大掛かりな捜索を行い、村吉家裏手の竹田川に係留してあった小船の船べりに、血痕が付着していているのを発見した。
そして小船から少し下流の川底から、妻ツオの遺体が沈んでいるのが見つかった。
さらに翌日には母キクの遺体が、九頭竜川の河口付近に沈んているのを発見し、引き上げた。
しかし、村吉の遺体はその後の捜索でもついに発見することは出来なかった。

そのまま進展することなく、大正10年にはついに時効を迎え、迷宮入りとなってしまった…

ところが、事件から20年過ぎた大正15(1926)年12月12日、京都府警に窃盗の罪で逮捕されていた谷本仁三郎(49)なる男が、
自分がこの事件の真犯人であると告白したのである。
20年ぶりの真犯人判明と報道されたが(福井新聞:大正15.12.13)、

しかし、窃盗の前科が多数ある窃盗(おそらく空き巣)犯の谷本が犯したにしては不自然な点が多い。
まず窃盗目的だとして、このような手のかかる事をわざわざするだろうか。強盗するにしても普通に押し入れば良く、複数回に分け連れ出して殺害する意味が無い。
まして店にいた村吉を連れ出す理由は、金品目的なら皆無だ。
事実、犯人は金品を盗ることが出来ないままに終わっている(手持ちの金を盗れたかもしれないが)。
また、逮捕された谷本が証言した他の事件においても、「でたらめを述べている節が二、三ある」と警察が疑問を呈していることからも、谷本の証言は怪しく、真犯人とは考えにくい。
しかし、すでに時効を迎え捜査資料も散逸していたことから、真相は解明されないままに終わった。。

https://goo.gl/qpn47g


●昭和62年 悪魔祓い事件


「悪魔が取り憑いている」...
出典 www.gettyimages.com


藤沢悪魔祓いバラバラ殺人事件1987年(昭和62年)2月26日の朝、神奈川県藤沢市のアパートで、無残に切り刻まれた死体が発見され、その死体の傍らにいた2人の男女が藤沢北署に逮捕された。
捕まったのは、その部屋の住人で、不動産業のS(当時39歳)と主婦で元看護婦の茂木M(当時27歳)。
殺されたのはMの夫で、コミックロックバンド「スピッツ・ア・ロコ」のリーダーの茂木政弘(32歳)と分かった。

スピッツ・ア・ロコ」は、1983年(昭和58年)6月、『キープ・オン・ラブ』『愛論人(アイロンマン)』のシングル2枚とLP『人情』を出し、デビューしていた。


Sの部屋を訪ねた知人が部屋に入ったとき、SとMの2人が政弘の足、胴体、頭部をバラバラにし、死体を切り刻んでいる最中だった。

死体はノミやノコギリでどれがどこだか分からないほどコマ切れにされ、床には内臓がゴロンと転がっていた。
しかも2人とも一心不乱に頭部の骨についた肉をハサミで削り取っており、この知人の通報を受けて駆けつけた警察、両親にもまったく無関心のまま、ひたすら作業を続けていたという。

殺された政弘とSはいとこ同士で、子どもの頃から仲が良かった。音楽だけが生きがいの政弘に対し、Sは不動産業と称してはいたが、実際にはほとんど何もせず、戦争の本を読んでいた。しかも、1979年(昭和54年)に、宝石詐欺の前科があった。
これは執行猶予になったが、その後も横浜市内で地上げした土地をめぐってトラブルを引き起こすなど詐欺まがいの行為を続けた。

どうしてこの2人が気が合うのかが不思議だが、2人は頻繁に行き来した。

1986年(昭和63年)4月、政弘はMと結婚するが、政弘とSとのこうした付き合いはその後も変わらなかった。
3人に共通していたのは、いずれも横浜市にある新興宗教団体の大山祇命(おおやまねずみのみこと)神示教会に入信していたことだった。
この教会は横浜に本部を置き、当時信者数は70万人を超えていた。
中でも殺された政弘は、両親ともに熱心な信者で、1974年(昭和49年)入信、1985年(昭和60年)に脱会している。
妻のMも1979年(昭和54年)入信、1986年(昭和61年)に脱会している。さらに、Sもこの新興宗教の熱心な信者だった。そもそも宗教団体を紹介したのはSだった。


一方、Sはミュージシャンである政弘に「世の中は悪魔でいっぱいだ」「悪魔を祓い、救世の曲を作れるのは政弘しかいない」「政弘は音楽でこの世を良くするように神から送られてきた使いだ」などとふきこんでいた。

その言葉を信じていた政弘は、事件前にSの部屋に泊り込んで、「救世の曲」作りに没頭していたという。その頃、政弘とMとの間に別れ話が出ていたことやロックバンドの解散話が出るなどのトラブルがあった。

Sはこれは「悪魔が取り憑いている」せいだと言い出し、政弘も「悪魔が取り憑いていた。祓ってくれ」と言い出した。同年2月22日の午後、Sと向き合うようにして悪魔祓いを行った。3本のロウソクに火をつけた「祭壇」の前で、にらめっこをしたり、身体に塩をすり込んだりしていた。そこにMも加わって悪魔祓いをした。

政弘が先に目をそらせば悪魔が去ったことになるというものだったが、政弘はとうとう最後まで目をそらさなかった。

そのため、Sは、「肉体が死ななければ悪魔も死なない」と政弘の殺害を決意した。MはSの言葉を信じて疑わず、政弘の首を絞めるSを手伝って殺した。悪魔を追い払えば死体が生き返ると信じたらしいが、その後、2人は悪魔が再び乗り移らないように、3日間ほとんど眠らずに政弘の死体を切り刻み、頭蓋骨などに塩を詰めていたという。

2人は儀式の最中、政弘が作っていた「救世の曲」をカセットで聴き、口ずさみながら死体を解体、ナイフやハサミでそいだ肉や内臓は台所から排水溝に流していた。アパート脇の下水の側溝には肉片が散乱し、回収できないほど遠くまで流れていた。

SとMは捕まったとき、「悪魔、悪魔」と口走っていた。3人がかつて所属していた宗教団体では、「悪魔」や「悪魔祓い」の言葉は存在せず、まして死体を切り刻むなどというまじないなどもない。


1992年(平成4年)5月13日、横浜地裁は、「精神鑑定の結果、2人とも善悪を判断する能力があった」として、Sに懲役14年、茂木Mに懲役13年(ともに求刑・懲役15年)の刑を言い渡した。

http://www.maroon.dti.ne.jp/knight999/fujisawa.htm


●平成12年 ルーシー・ブラックマンさん殺害事件


確実に殺しているのに無罪..在日が生んだ壁
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無罪判決に金聖鐘は、ほくそ笑んだか…ルーシー・ブラックマン事件は猟奇的犯罪であると同時に、既成マスコミの限界を示すものだった。それは我が国の報道を覆い尽くす“在日の壁”だ。
「主文、被告人を無期懲役に処する。…ルーシー・ジェーン・ブラックマンに対するわいせつ誘拐、準強姦致死、死体損壊・遺棄の点については、無罪」
その瞬間、104号法廷の傍聴席からは、どよめきが起こったという。

英国人女性ルーシー・ブラックマンさん殺害事件で東京地裁は、被告の金聖鐘(キム・スンジョン)に対し、無罪判決を言い渡した。まさかの判決だった。
裁かれたのは金聖鐘が起こした女性10人の連続準強姦事件だが、あくまでも裁判の核心は、2000年のルーシーさん殺害だった。他の複数の事件については立証され、無期懲役となったものの、ルーシーさん殺しはシロ判定だ。
裁判を傍聴する為に来日していたルーシーさんの家族もショックを隠せない。

判決を下した裁判長は、ルーシーさん殺害について金聖鐘をシロとした理由を、こう説明した。
死体遺棄などと同様、被告が何らかの形で関与した疑いはあるが、他の被害者と異なり、暴行場面を撮影したビデオはなく、暴行や薬物投与を直接証明する証拠はない」
非道ビデオがなかったことが無罪判定の理由?
更にルーシーさんの死因が特定できていなかったことも、金聖鐘の犯行と断定し得なかった理由に挙げられている。初動捜査の遅れ、遺体の発見の遅さが、判決にも響いた格好だ。

英国航空スチュワーデスのルーシー・ブラックマンさん失踪事件は、マスコミの格好の素材となり、取材もヒートアップしていた。
事件は外交問題に発展するかのような色合いも持っていた。国内のメディアが過熱する一方で、ルーシーさんの母国・英国でも注目されていた。
10万ポンドもの懸賞金や、家族が来日してビラを配るなどの活動は、特に日本人の耳目を惹き付けた。


また失踪直後に「新興宗教の修行に行っている」という謎めいた電話が友人の元に寄せられたことで、英国メディアの中にはカルト犯罪に巻き込まれた可能性を探るものもあった。
事件を重くみた警視庁捜査一課などが調べを進めたところ、ルーシーさんが勤めていた六本木の店の常連客が浮上。それが金聖鐘だった。


2000年10月、警視庁は別の準強制ワイセツ事件で、金聖鐘を逮捕し、自宅の捜索を行う。これを機に、国内の報道も最高潮に達する。豪邸に暮らす謎の人物の猟奇犯罪だ…

2001年2月9日、神奈川県・三浦市の海岸洞窟でバラバラ遺体発見。それがルーシーさんの変わり果てた姿だった。実に、失踪から9ヵ月余りが過ぎていた。

この頃から織原城二なる猟奇犯罪者が、日本人ではないとの噂が駆け巡るようになったという。それはマスメディアではなく、ネット上での広がりだ。
帰化人説が広まるのと反比例して、マスコミ報道は徐々に下火になっていく。ニュースはもとより、TVの情報系番組も明らかに取り扱いを小さくしていた。

ルーシー・ブラックマン事件は、マスコミの表舞台から消える…

それは日本と英国の報道の温度差を際立たせる結果にもなった。
一連の事件の公判は、60回以上にも及んでいた日本のメディアは、犯罪史に残る猟奇犯罪であるにも関わらず、殆ど報じなくなっていた。だが、英国の雑誌などは度々続報を取り上げていたようだ。
その内外報道の温度差から浮き彫りにされたのは、日本の既成マスコミの前に聳える“在日の壁”である。


それによると金聖鐘は1952年、大阪生まれ。星山聖鐘(ホシヤマ・セイショウ)という偽装名を使っていたこともあったようだ。また慶応大学在学中に整形したという。

大金持ちだった父親は金聖鐘が17歳の時に香港で客死。暴力団絡みの怪死だったとされる。その後、父親の残した莫大な遺産を2人の兄弟と山分け。21歳の時に日本国籍を得て、織原城二と変名した。

特筆すべきは、金聖鐘の父親がパチンコ経営で蓄財した過去だ。『タイム』紙によると“貧しい移民”だった金某は「タクシー、不動産、パチンコ」と職を変えて富を蓄えたという。

親の遺産をそっくり継承した金聖鐘。しかも、そのカネはしかもパチンコ経営による脱税マネーだ。正に“パチンコ王子”である。

日本のマスコミが飛びついたのは、金聖鐘の巨大な邸宅だった。庶民の度肝を抜く豪邸だ。田園調布の一角にある金聖鐘邸は、敷地面積330坪で、プール付き。放置された超高級車の群れも目を引いた。
金一族は全国各地でビル経営を行っていた。銀座に3棟を所有している他、40近い不動産を持っていた。金聖鐘は何もせずに、莫大なテナント料が入ってくる仕組みだ。
それらの多くはパチンコ脱税マネーを土地・建物に変えたものだろう。

由々しきことだが、新聞・テレビのみに情報を頼る者は、織原なる男が生粋の日本人だと信じているだろう。帰化した以上、かつての名前が報じられないのは、やむを得ない…
しかし犯人がパチンコ成金の“黒い御曹司”だった事実が、事件の大きな構成要素だ。

https://dogma.at.webry.info/200704/article_21.html




●平成4年 連鎖自殺事件


1ヶ月の間に近隣で次々に起こった自殺..
出典 amanaimages.com


1992年6月から7月にかけて、大阪府熊取町で17歳から22歳の若者が連続して自殺、変死するということがあった。一週間ごとに、それも決まって水曜日か木曜日に自殺するというミステリーで騒がれた。

熊取町・・・・大阪府南部。泉南郡に属する。人口約43000人。
――――――――

事件自殺した5人については以下の通り。

6月4日(木)無職・A君(17歳)が自宅そばのタマネギ小屋で首吊り自殺

6月10日(水)土木作業員・B君(18歳)がかつて住んでいた家の納屋で首吊り自殺。

6月17日(水)旅館従業員・C君(18歳)が農作業小屋で首吊り自殺。

6月25日(木)熊取町在住の岸和田市職員D君(22歳)が町内の森で首吊り自殺。

7月2日(木)熊取町内の女子大に通うE子さん(19歳)が胸を果物ナイフで刺し自殺。

また5人の自殺の前に2人の17歳が亡くなっていた。

4月29日(木)シンナーによって板金工のX君(17歳)が熊取町内の貯め池に落ちて死亡。

5月29日(金)無職・Y君(17歳)がシンナー吸引による心不全で死亡。

シンナーで死んだ2人を合わせると、死体が見つかった場所はすべて半径1.2km以内に集中している。この狭い範囲の中、2ヶ月半で7人の若者が亡くなっていた。

自殺、不審死の熊取町の若者たちのうち、岸和田市職員のD君と女子大生のE子さん以外の5人はシンナーやバイクをキーワードに接点があった。


A君・・・・17歳。中学3年時はほとんど登校せず、パチンコ店などに繰り出していた。当時の同級生によると、B君よりも”暴れもん”という印象だったという卒業後は美容師の専門学校に入学するが中退、事件当時は無職だった。1991年、B君、C君らとともに暴走族を結成。特にB君と仲が良かったようだ。シンナーを常用しており、B君とはバイク仲間でありシンナー仲間であった。

B君・・・・18歳。熊取の不良達の間では有名だったという。A君、C君らと立ち上げた暴走族のチームでは特攻隊長のような役割をしていた。当時、妊娠中の彼女がいて入籍する予定もあり新しい住まいもすでに決まっていた。A君の葬儀では「何で死んだんや」と悔しがり、「俺たちはしっかり生きていこう」と仲間を励ましていた。だがその数日後、自身も自殺する。

C君・・・・18歳。高知出身。野球少年で、野球の強豪校に進学したが中退、その頃高知にやって来ていたB君の友人を通してB君と知り合い仲間となる。その後、熊取町にやって来てB君の父親が経営する土建会社でB君と一緒に働いていたりした。B君が自殺した当時は三重県鳥羽市の旅館で手伝いをしていたが、自殺の報せを聞き熊取町に戻ってきた。しばらく友人達と会ったりしていたが、「以前付き合っていた女性(当時17歳)に会いたい」と思い、2人の友人を連れて女性に会いにいった。だが女性から「もうすぐ他の男性と結婚する」と聞き、友人に「ロープはないか」と言っていたという。その6時間後、自殺死体となって発見される。

D君・・・・22歳。岸和田市職員。

E子さん・・・19歳。鳥取県米子市出身。地元の高校を卒業後、大阪体育大学に進んだ。高校時代はソフトボールをやっていたが、大学進学後は陸上競技に転向した。町内の学生寮に住んでいた。遺書はなかった。

X君・・・17歳。A君・B君の中学時代の後輩で在学中に交流があった。Y君とは同じ中学。

Y君・・・17歳。A君・B君とバイク仲間だった。3人でよく熊取近辺を走っていたという。


自殺とするには不審な点が多く見うけられた。

☆A君の「借金を返して欲しい」というメモ以外は、誰も遺書らしきものを用意していなかった。死ななければならない理由も思い当たらない。

☆農作業小屋で首を吊ったC君はなぜか手首を後ろ手に縛っていた状態で死んでいた。警察は衣服に乱れのないことと、自分1人でも縛れる結び方だったので自殺と断定した。これから死のうとする人間がどうして手を縛る必要があったのか。(衣服が汚れていた、という目撃証言もあった)

☆D君は熊取と隣りの貝塚市の境界近くの小高い丘にあるクリの木でシャツで首を吊って自殺したが、そのシャツはとうてい手の届かない高い枝にかかっていた。

☆体育大生だったE子さんは住宅地の中のグラウンドを背にした道路でナイフで首と胸を刺して死んだ。遺体は道路沿いの細い側溝にはまっていた。時間はまだ人通りのある8時過ぎ。なぜこんな目立つ場所での死を選んだのだろうか。また、E子さんは陸上競技の自己ベスト記録を出したばかりで喜んでいたばかりだった。死ぬ理由など思い浮かばない。当日、血だらけの状態で発見されたE子さんは意識が朦朧とする中で「違う、違う」と繰り返していたという。

☆B君、C君、E個さんの3人は以前から知人や家族に「車に追われている」と話していた。B君は「白いクラウンに追いかけられている」と母親に漏らし、それを聞いた母親がC君に尋ねてみると「何度かそういうことがあった」と話したという。E子さんは友人に「黒い車につけられている」と話していた。


http://yabusaka.moo.jp/kumatori.htm


●平成18年 セレブ妻夫バラバラ殺人


「遺体を捨てたとき、夫の声が聞こえた」..
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「白いポリ袋に入ったマネキンのようなものがある。死体かもしれない」

平成18年12月16日午前8時すぎ、通行人の男性の110番通報で駆けつけた警視庁新宿署員は、異様な光景を目の当たりにした。

植え込みのそばに放置された2枚重ねの白いゴミ袋に入っていたのは、首と両手、下半身が切断された胴体だけの遺体だった。遺体は20~30代男性、切断面の形状などからのこぎりのようなもので切られたとみられ、死後1~3日が経過していると推定された。
同日、警視庁捜査1課は新宿署に捜査本部を設置、死体遺棄容疑で捜査を始めた。

植え込みのある線路脇の通りは、男性の出勤ルートだった。午前8時前、いつものように線路脇を歩いていると、数メートル先に白いゴミ袋が置いてあるのが見えた。その中に、人の体のようなものが透けていた。

「この辺はホームレスが多かったから。最初は誰かが袋に入って寝ているのかと思ったんだよ」
ところが、近づいていくと、袋の中の人の首のあたりが赤く染まっているのが見えた。
「首を…切られている?まさか…死体?」その瞬間に背筋が凍り、夢中で走って通り過ぎたという。

「警察に通報する余裕なんてなかったよ。自分1人では、恐怖をとても抱えきれなくて。とにかく、同僚か誰か、知っている人の顔を見て心を落ち着けたかったんだ」。間もなく現場周辺には規制線が張られた。「殺人事件らしい」。そんな噂が広まってきた。

数少ない目撃者であることを聞きつけてか、遺体発見直後、男性の元には報道陣が連日取材に押し寄せたという。引き出しには今も、そのときに受け取った名刺が保管されている。

「あの時の光景が焼き付いて、しばらくは嫌な気分だったよ。最近はようやく、ときどき思い出すくらいになったかな」
男性は事件以降、線路脇のあの道から通勤するのをやめているという。


渋谷区神山町。茶色いタイル張りの遊歩道沿いに、こじゃれた一戸建て住宅や放送局のスタジオが軒を連ねる。その中で、落書きだらけのブロック塀に囲まれた庭と古びた民家が、そこだけ時が止まったように異質な存在感を放っていた。ここが、第2の遺体発見現場だ。

「夕方くらいだったでしょうか。外が騒がしいので表へ出てみると、パトカーが止まっていて人だかりができていた。まさか遺体が置かれていたなんて…」。付近の会社に勤める50代の女性は、10年前をそう振り返る。

上半身発見から12日後の18年12月28日午後3時10分ごろ、犬の散歩をしていた通行人の女性が、最初に“異変”に気付いた。犬がこの家の門のあたりで立ち止まったため、中をのぞくと、門から約7メートルの所に男性の腰から下の遺体がうつぶせに横たわっていたのだ。驚いた女性は近くの交番に駆け込む。一報は新宿署に置かれた特捜本部にも伝わった。

死亡や遺棄の推定時刻、遺体の特徴から、新宿で見つかった上半身の遺体と同一人物とみられた。大都会の死角で相次いで見つかった切断遺体。当初はその残忍な手口から、暴力団関係者や外国人グループによる犯行の可能性も指摘された。だが真相は違った。


ところが、事件は年明けの19年1月10日、急展開する。新宿署捜査本部は遺体を渋谷区富ケ谷の大手外資系証券会社社員の男性=当時(30)=と断定。死体遺棄容疑で男性の妻=当時(32)=を逮捕したのだ。年収1000万円を超えるエリート会社員と、長身で、ブランド服を着こなすセレブ妻。そんな“理想的”な夫婦の間で、自宅の高級マンションを舞台に巻き起こったバラバラ殺人事件だった。


実は、妻は新宿で上半身の遺体が発見される前日、「主人が11日に会社に出たまま帰宅しない」と代々木署に夫の捜索願を出していた。当初は胴体の長さから捜索願が出ていた被害男性よりも身長が低いとみられ、捜査本部はリストから外していた。だが、渋谷で下半身が見つかったことで身長が判明。長身で足が長かった被害男性もリストに新たに含まれ、再捜査するようになった。

その際、決定打となったのが妻が捜索願で書いた「胸に手術痕」の記載だった。捜査員が男性の周辺者に胸の手術痕を聞くと、「そんなものはない」と回答。妻の虚偽の捜索願が明らかとなり、妻は一気に捜査線上に浮上した。

「声が聞こえる」

「ワインの瓶で寝ていた夫の頭を殴って殺害し、量販店で買ったのこぎりで頭や胴体などを切断した」

任意同行された妻は、容疑をあっさりと認め、夫のの殺害や遺棄の方法についても次々と自供を始めた。

「胴体を旅行用のキャリーケースに入れて、タクシーで新宿に行き捨てた」「下半身はキャリーケースに入れて台車で運び、渋谷区の民家の庭に捨てた」「頭はバッグに入れて電車に乗って町田に行き、近くの公園にスコップで穴を掘り埋めた」


残忍な犯行は一方で、人目につきやすい場所に遺体を遺棄するなど、場当たり的でもあった。「生き方が合わず、自分のことを否定された。夫から暴行を受け、殺意を抱いた」。妻は殺害に至った動機についてこう語った。

ところが、その後の裁判で、妻は犯行当時心神喪失の状態で責任能力がなかったと主張した。

「遺体を捨てたとき、夫の声が聞こえた」

「警察署で、鏡に映った彼の姿を見た」

法廷で、被告となった妻は幻聴や幻覚の症状を訴えたが、1審の東京地裁は「責任能力に影響を与えるものではない」と完全責任能力を認めて懲役15年の実刑判決を下し、2審もこれを支持。22年7月、1、2審の判決が確定した。

http://b.hatena.ne.jp/entry/314398998/comment/wuzuki


●昭和43年 ゾディアック事件


何度も取り逃がしたアメリカの有名未解決事件
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1968年12月20日アメリカ・カリフォルニア州、ヴァレイホ近くのデートコース・通称「恋人の道」で、デビッド・ファラデーという小年とベティルー・ジェンスンという少女がデートをしていた。
2人はハーモン貯水湖のポンプ小屋の陰に車を停めて、キスに夢中になっていた。その時突然、何者かに外から車の窓を叩かれた。デビッドが振り向くと、車の外には拳銃を持った太った男が立っていた。
「降りろ。」と男が命じる。震えながらデビッドが車から降りると、その瞬間デビッドの頭に弾丸が叩き込まれた。
バッタリと倒れたデビッドを見てベティルーは「キャーッ」と悲鳴を上げ、車から降りて走って逃げ始めた。しかし男は逃(のが)さず、今度はベティルーめがけて5発の弾丸を放った。

鮮血に染まり、ベティルーもその場に倒れた。
数分後、たまたま通りかかった車が倒れている2人を発見し、すぐに警察を呼んだが、警察が到着した時には2人はすでに死亡していた。
2人とも何も盗られた様子もなく、少女の方も服は乱れておらず暴行された形跡もない。犯人の動機は全くの不明だった。

1969年7月4日、ポンプ小屋の殺人事件から約半年後、この現場からわりと近い位置にある、ブルー・ロック・スプリング公園で23時過ぎ、一組のカップルが車の中で話をしていた。
マイケル・ルノー・マゴー(男性=19)と、ダーリーン・エリザベス・フェリン(女性=23)の2人である。
その時、一台の車が近づいて来て、2人の車の横に停車した。中から男が降りてきて2人の車に近づいて来る。車のすぐ横に立った男は銃を取り出し、いきなり2人めがけて発砲した。
弾丸はダーリーン(女性)に2発、マイケル(男性)の首に1発命中した。男はすぐに自分の車に乗り込み、猛スピードで逃げていった。男が逃げた後、マイケルは何とか車から這(は)い出したが、そこで意識を失って倒れた。


日付が変わって7月5日の午前0時4分、ヴァレイホ警察署に男から電話がかかってきた。
「殺しを二つ教えてやろうか。コロンバス・パークウェイを1.6キロほど東へ行って、そこで茶色の車の中を見てみろ。
ガキが2人死んでるはずだ。撃ったのは9ミリのルーガーだ。去年、湖でガキどもを殺したのも俺だ。じゃあな。」
男は太いドラ声で一方的にしゃべって電話を切った。
すぐに警官が言われた場所へ駆けつけると、男の言った通り、2人の人間が撃たれてぐったりしていた。2発撃たれたダーリーン(女性)の方はすでに死亡していたが、マイケル(男性)の方はまだ息があった。すぐに病院に運ばれてマイケルは何とか一命を取りとめた。
マイケルの証言によると犯人は「太っていて、背は高くも低くもない程度、丸顔で髪はちぢれている、年齢は25歳から30歳くらい」ということだった。
自分の方から前の殺人のことまでしゃべるというのは、捕まらない自信があるのか、自慢したいのか。ただ、警察は、この犯人の言う「前の殺人」というのも、かなり信用出来る発言として捕らえた。
二件の事件で4人が撃たれ、そのうちの3人が死亡した。この事件も前回と同じく動機は不明で、無差別殺人とも思えるような事件だった。


▼ゾディアックと名乗る男からの手紙
公園の事件から4週間後の8月1日、ヴァレイホの「タイムズ・ヘラルド」社に1通の手紙が届いた。手紙には汚い字で、上記のダーリーン殺害の犯人でなければ知らないようなことが多く書かれでおり、「○」の文字の中に「+」(十字)が書かれた、照準器のようなサインがしてあった。
手紙の差し出し人は、「ゾディアック」と名乗っていた。
手紙は犯人からのメッセージが書かれた紙以外に、暗号文が書かれた紙が1枚同封してあった。この暗号文の方は「サンフランシスコ・クロニクル」誌と「エグザミナー」誌にも送られていることが分かった。
暗号文は3枚とも内容が違うもので、犯人からの手紙によれば、この3枚を組み合わせれば差し出し人が誰だか分かると書かれてあった。また、この手紙を1969年8月1日発売の3誌に載せなければ、俺は車で走りまわって10人以上の人間を殺すだろうとも予告してあった。新聞で大々的に報道して欲しいという意図は明らかだった。
海軍の暗号解読の専門家を始めとして、色々な人間が暗号解読に挑んだ結果、ある学校教師が解読に成功した。犯人のメッセージは次のようなものだった。

「俺は人殺しが好きだ。とても楽しいから、森でケモノを殺すよりも楽しい。
人間は一番危険な動物だ。殺人は俺にとっては最高のスリル。女の子とセックスするよりも楽しい。
特にいいことは、俺が死んで楽園に生まれ変わった時、俺が殺した奴らはそろって俺の奴隷になるところだ。
俺の名前(本名)は言わない。言えばお前たちは、将来、俺が生まれ変わった世界のために、今やっている奴隷狩りを邪魔するか、やめさせようとするからだ。」

3誌は、暗号までは新聞に掲載したが、世間に恐怖を与えるような脅迫文の部分までは掲載しなかった。

▼また殺しを二件教えてやる
脅迫状が新聞に掲載されてから約2ヶ月後の9月27日、ナパ谷のベリエッサ湖畔で、パシフィック・ユニオン・カレッジの学生が2人で食事をしていた。ブライアン・ハートネル(男性)とシシリア・シェパード(女性)の2人である。
突然、覆面をかぶった男が木の陰から現れて、2人に近づいてきた。胸の部分には○に十字のマークが書かれてあった。

覆面の男は片手に拳銃、もう片方の手にナイフを持ち、ブライアン(男性)に銃を突きつけ、「金を出せ!」と叫んだ。
パニックに陥(おちい)ったブライアンは、「欲しい物は何でも差し上げます!」と、震えながら叫んだ。
「俺はモンタナのディア・ロッジ刑務所から逃げて来た。お前らの車をもらう。」と言って、怯える2人をロープで縛(しば)り始めた。

2人とも縛り終えると、「お前らみたいな奴は殺してやる!」と叫んでブライアンの背中をナイフでメッタ突きにした。次にシシリアに襲いかかり、同様に背中をメッタ突きにした後、シシリアをひっくり返し、腹や胸にもナイフを突き立てた。

その後、覆面の男は、彼らの乗って来た車に近づき、黒のマジックで、例の○に十字のマークと、自分が行った前の二件の殺人の日付を書いてから立ち去った。
ナパ警察署に電話があったのはそのすぐ後だったようだ。ドラ声で「また殺しを二件教えてやる。」と言って、相手の男はベリエッサ湖畔の特定の場所を説明した。

すぐに警官がそこへ駆けつけると、縛られて血まみれになった2人が転がっていた。2人ともこの時点ではまだ生きてはいたが、シシリアの方は収容先の病院で二日後に死亡した。ブライアンの方は一命を取りとめ、何とか回復に向かった。
ゾディアックに襲われた死亡者はこれで4人目となった。

後の調査で、ゾディアックが使った電話は、ナパ警察署から6ブロック離れた公衆電話であることが判明した。また、ディア・ロッジ刑務所に問い合わせてみたが、脱走した者などはいないという返答だった。


▼5人目の犠牲者
ベリエッサ湖畔の事件から2週間ほど経った10月11日、またもやゾディアックの犠牲者が出た。今度はタクシーの運転手である。
サンフランシスコでタクシー運転手をしているポール・スタイン(29)は、ノップ・ヒルのフェアモントホテルの近くで一人のお客を拾った。褐色の髪でネガネをかけた太った男だった。

約15分後、ポール運転手は言われた通り、ワシントン通りとチェリー通りのかどの歩道に車を乗り上げて停車した。その途端、男は銃を取り出し、運転手の後頭部めがけて数発を発射した。
ポール運転手は即死し、タクシーから降りた男はすぐに運転席の方へまわり、運転手の財布を抜き取った。その後、運転手の着ていたシャツを引き裂いて、その切れ端で自分の指紋がついたであろう場所を拭き始めた。
間もなく2人の通行人が通りかかったことに気づき、男はプレシディオ広場の方へ逃げていった。

この事件の4日後、サンフランシスコの「クロニクル」誌に犯人からの手紙が届いた。

「俺はゾディアックだ。タクシー運転手を殺したのは俺だ。(警察に対して)その気になれば、昨日俺を逮捕出来たのに残念だったな。
ところで、小学生というのはいいターゲットになる。いつか、スクールバス一台分皆殺しにしてやろうと思っている。タイヤを撃ち抜いて、ガキどもがバラバラ出て来たところを狙い撃ちにしてやる。」

手紙にはこういった内容が書かれていた。

この度(たび)のタクシー運転手の件では2人の目撃者がおり、その2人に協力してもらってモンタージュ写真が作成された。また、ベリエッサ湖畔での事件の時にゾディアックがナパ警察署へかけた公衆電話からは有力な指紋も採取出来ていた。警察側も少しずつ犯人に近づきつつあった。

▼自首するには条件がある

タクシー運転手殺しの10日後、今度はオークランド警察署にゾディアックから電話がかかってきた。例の太いドラ声で、これまでの数々の殺人の、犯人でなければ知らないようなことを語った後、驚くようなことを言い始めた。
「自首することにした。」とゾディアックが言いだしたのだ。

ただし条件をつけてきた。
「F・リー・ベイリーかメルヴィン・ベリーのような有名な弁護士をつけること。」
「人気番組であるジム・ダンパーの朝のトークショーに出演して話をさせること。」もちろん出演は電話出演である。

やってみる価値があると判断した警察側はこれらの条件を呑み、準備を始めた。弁護士の方はメルヴィン・ベリーに頼むと快くOKしてくれた。


▼助けてくれ
メルヴィン弁護士は一通の手紙を受け取った。ゾディアックからだった。
自分が本人である証拠として、封筒の中には、タクシー運転手殺害の時の血まみれのシャツの切れ端が同封してあった。
「親愛なるメルヴィン・ベリーへ」で始まるこの手紙は、助けを求めているような内容が書かれていた。テレビ局に電話してきた声は以前のゾディアックとはまるで別人のようだったが、やはりあれは本人からの電話だったのだろうか。
「俺は自分から助けを求めることが出来ない。俺の中のもう一人のあいつがそうさせてくれないからだ。
だんだん自分にブレーキをかけられなくなっているのが分かる。そのうちブレーキが壊れて、9人目、10人目を殺してしまいそうだ。助けてくれ。俺は溺(おぼ)れかけている。」

こういった内容だったが、スペルもメチャクチャで、精神状態はかなりひどいようだった。

▼途絶えた手紙
メルヴィン弁護士は手紙のことをサンフランシスコ警察へ知らせた。ゾデイアックの殺人は、判明しているものが4件、襲われたのが7人、そのうち死亡者が5人である。
9人目、10人目を殺してしまいそうだということは、これまで8人殺しているのだろうか。
手紙を受けて警察は捜査を強化したが、依然ゾディアックの行方は掴(つか)めなかった。そしてしばらくして、警察にもゾディアックから手紙が来るようになった。
主な内容は、警察が発表した被害者の数が違うというものであり、最初に警察が発表した「被害者は5人」という点について「7人殺した」と反論していた。

警察側が6人と訂正すると「17人殺している」という手紙が来た。こういった調子でゾディアックから手紙が送られて来ていた期間は7年にも及ぶ。その間も逮捕はされず逃走を続けていた。
1974年に送られてきた手紙には「37人殺した」と書かれてあり、サンフランシスコ警察は「そんなに多くの死体はない」と反論した。

そしてこの手紙を最後にゾディアックからの通信は途絶えた。
http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/056zodiac.htm


●昭和43年 フィレンツェの怪物


カップルばかり狙った殺人犯..
出典 www.amazon.co.jp


レクター博士の逃亡先がフィレンツェだったのは「フィレンツェの怪物」と無関係ではないだろう。「イル・モストロ事件」とも呼ばれるこの連続殺人事件はいまだに未解決のままである。

最初の犯行は1968年8月21日に遡る。フィレンツェ郊外の墓地付近で停車中の車から男女の射殺死体が発見されたのだ。車内には女性の子供が同乗していたが、熟睡していたために無事だった。その父親たる夫に嫌疑がかけられ、1970年3月に13年に処された。ところが、これが誤審であったことが後に発覚する。

1974年9月14日、フィレンツェ郊外の葡萄畑付近で停車中の車から男女の射殺死体が発見された。被害者は共に裸で、特に女性は96ケ所もめった刺しにされていた。その上、性器には葡萄の茎が押し込まれていた。
この時点では、1968年の事件と関連づけて考える者はまだ誰もいなかった。


1981年6月6日、3組目の犠牲者が出た。やはり車内で射殺され、女はめった刺しにされた上に性器を切り取られていた。前2件との類似性は明白だが、この時点をもってしても連続殺人事件だと考える者はいなかった。覗きの常習犯が容疑者として逮捕されたが、次の犠牲者が出たのはその拘禁中のことだった。

同年10月22日、バルトリーネ付近で車内から男女の射殺死体が発見された。この時点で警察はようやく連続殺人事件ではないかと考え始めた。弾道検査を行ったところ、4件すべてが同じ22口径のベレッタから発射されたものだった。
それでも1968年の事件で有罪になった男は釈放されなかった。警察は共犯者がいるのではないかと考えたのである。その推測の下にもう一人の男が逮捕されたが、すぐに無実であることが明らかになった。1982年6月19日に同じベレッタの犠牲者がもう1組増えたからである。

1983年9月9日にはゲイのカップルが射殺された。一人の髪が長かったために女と間違われたらしい。
警察はなおも「共犯者」による犯行に固執し続け、新たに数人の身柄を拘束したが、それをあざ笑うかのように犯行は続いた。1984年7月29日に別の男女が犠牲になっている。
そして、1985年9月8日の犯行が最後となった。犯人は被害者の女性から切り取った性器を検事に送りつけると、それを別れの挨拶にして消え去ったのだ。

警察は「共犯者」の線を捨て、新たにピエトロ・パッチャーニという69歳の農夫を逮捕した。彼は一貫して無罪を主張し、係争中の1998年2月に心臓発作で死亡した。またしても真相は闇の中だ。
事件を迷宮に導いたのは、明らかに警察の初動捜査のミスである。1968年の件の誤審を認めようとしなかったために傷口をどんどん広げてしまったのだ。連続殺人事件であることに気づくのも遅すぎた。こうしたグダグダぶりを参考にして執筆されたのが、トマス・ハリス著『ハンニバル』の前半部分である。

https://www.madisons.jp/murder/text/mostro.html


●昭和53年~ ジェフリー・ダーマー


性奴隷を作るために脳に注射...
出典 www.aflo.com


ミルウォーキーの食人鬼との異名を取るジェフリー・ダーマーは、子供の頃からすでに死体を好む兆候があった。小学生の頃は、ウサギを殺して硫酸に入れて溶かしてみたり、犬の首を切断して自宅の家の壁の上に飾ったりしたこともある。

彼が最初の殺人を犯したのは高校を卒業して1ヶ月にも満たない時期であった。
ある日彼は、ヒッチハイクをしている男の子に出会い、そのまま彼を自宅に招いた。子供のころから極端に友達の少なかったダーマーにとっては、友人が家にくるなどということは初めてのことであり、大喜びでもてなした。 話も弾み楽しいひとときを過ごしたが、ビールを2本飲んだところで彼はそろそろ帰ると言いだした。彼が帰ってしまっては、自分はまた一人ぼっちになってしまう。ダーマーは、躊躇することなく彼の首を絞めてそのまま殺した。

死体にしてしまえば彼とずっと一緒にいられると思ったのだ。そして死体は刃物を使ってバラバラに解体した。

1986年。この頃彼はミルウォーキーで祖母と一緒に住んでいたが、ある少年に対してワイセツ行為を行なったために警察に逮捕された。そして逮捕の後、世間体を気にした祖母は、ダーマーに、家から出て行くように言った。このたあいもない逮捕がきっかけとなってダーマーは、仕事も住むところも失ってしまった。まもなく彼はミルウォーキー市内でアパートを見つけ、仕事もチョコレート工場に就職が決まった。

だが、就職して間もなく、今度は二回目の逮捕を経験してしまう。今度はラオス人の少年に50ドル払って、少年の裸を撮影しようとした罪である。


この時は実刑判決が下り、ダーマーは10ヶ月の刑務所生活を送ることになる。そして服役中、ダーマーは黒人男性に強姦されるという目に遭ってしまう。男に無理矢理犯されるという経験は、後のダーマーの狂気に一層拍車をかけることになってしまった。

1990年3月。ダーマーは出所し、一般社会に戻った。この時からダーマーの本格的な殺戮が始まる。男にしか興味を示さないダーマーは、少年と黒人男性を特に好んだ。

そうした獲物を見つけると言葉巧みに自分のアパートに誘い込み、ハルシオンなどの薬物を混ぜた飲み物を飲ませ、身体の自由を奪っておいてからじっくりと首を絞めて殺した。殺害した後は服を脱がせて裸にし、心ゆくまで男性たちの身体を犯したのである。そして犯しきった後は、犠牲者たちの身体をバラバラに解体する。ダーマーは、死体を切断していく過程をきちんと写真に撮って残しておくことも忘れなかった。

電動ノコギリを使って手足を全部切断し、硫酸で満たされた瓶に入れる。性器や手首はそのまま一つの入れ物に入れ、ベッドの横に置いた。

首は切断してから頭を熱湯でゆでて、顔の皮を剥いだ。 これらの作業は、すべて彼のアパートの中でひっそりと行なわれた。

ジェフリー・ダーマーが犯行を行ったオックスフォード・アパートメント213号室は後に「ザ・シュライン・オヴ・ジェフリー・ダーマー(ジェフリー・ダーマーの神殿)」として犯罪史に不朽の名を残すこととなる。


また、ダーマーは、アパートの自分の部屋を高価な防犯システムで固めていた。
家賃や部屋の造りからすれば過剰なほどの設備ではあったが、これらの装置は外部からの侵入を防ぐためよりも内部からの逃亡を防ぐのが目的であったようだ。

後にダーマーの部屋の下の住人は、「ダーマーの部屋から大きな話し声がよく聞こえていた。」と証言している。だが不思議なことにダーマー以外の人間の気配はしていなかった。もちろん、これはダーマーの話し相手が、もの言わぬ人間の部位だったからに他ならない。

また、別の住人はダーマーの部屋から悪臭がすると苦情を言いにいったことがある。その時もダーマーは「冷蔵庫が壊れて、中の肉が腐ってしまった。」と説明していた。確かに「肉が腐っていた」というのは嘘ではない。

ダーマーは犯行を重ねていくうちに恐ろしいことを考え始めていた、ゾンビの創造、つまり「ロボトミー手術」である。

ジェフリーが犯行時に睡眠薬をのますのは、被害者を無抵抗にするためである。ジェフリーは性的関係を拒まれることを極度に嫌っていた。つまり、従順で裏切らず自分の言うことを聞いてくれる恋人がいれば殺人を犯す必要もないのである。

前頭葉の一部を切り離すと無抵抗な人間になる。手に負えない人たちの治療法として行われていたが、あまりにも非人道的すぎるゆえに今日では禁止されている。

1991年4月9日、エロル・リンゼイに睡眠薬を飲ませたジェフリーは、頭部に電気ドリルで穴を開け、調理用の注入器を用いてエロルの脳に塩酸を注入した。余りの激痛にエロルを目を覚まし悲鳴を上げて転げ回った。ご近所迷惑の大騒ぎを制止するためにジェフリーは彼を絞殺し、初回の手術は大失敗に終わった。
1991年のある日、アジア系の少年が、ダーマーの部屋から悲鳴をあげて走り出てきた。殺されかかったのを必死の思いで逃げ出してきたのだ。 少年はたまたま近くを通りかかったパトカーに助けを求めた。だが不運なことに少年は英語がうまく喋れない。

すぐにダーマーが追いかけてきて「彼は私の友人で、ちょっケンカをしただけなのです。」と言って少年を引き取ってしまった。この少年は間もなく殺され、硫酸で溶かされた。

ダーマーの殺人は、91年の夏ごろから更に加速した。この頃すでに犠牲者は10人以上にも登っていた。だが、このまま無限に殺人が重ねられるわけがない。 18人目の犠牲者となるはずだった黒人男性が、なんとかダーマーの元から逃げ出し、片手に手錠をはめられたまま道路を走って警官に助けを求めたのだ。

事情を聞くと、北25丁目のアパートに住んでいる男に殺されそうになったのだという。すぐにこの黒人男性に案内させて、警官たちはその「殺人未遂の男」の部屋に踏み込んだ。言うまでもなく、ダーマーの部屋のことである。


ダーマーは冷静に
「いや、ほんの冗談のつもりだったんですよ。彼とは酒を飲んでいたんです。」と対応したが、手錠をされた男が「あいつ、ナイフを持っていますよ。」と小声で言ったため、手錠を外すために鍵を取りに行ったダーマーを制して、巡査自らがと取りにいった。

警官が部屋のドアを開けると猛烈な悪臭が鼻をついた。室内にはハエが飛び回っている。

鍵を探して引き出しの中を覗くと、中からバラバラ死体のポロライド写真が出てきた。警官が驚いて声を発した瞬間ダーマーは逃げ出そうとしたがその場でうつぶせにされ手錠をかけられた。

悪臭の原因を探ろうと、冷蔵庫を開けた一人の警官が突然悲鳴をあげて、激しく吐き始めた。冷蔵庫の中には、まだ切断されて間もないであろう人間の首が入っていたのだ。

すぐに応援の警官が呼ばれ、部屋の中の徹底した調査が行なわれた。捜索の結果、ダーマーの部屋からは4つの生首と7つの頭蓋骨が発見された。寝室には大きな瓶(かめ)が置かれており、3人分の胴体が溶かされていた。押し入れのやかんの中には男性の性器と手首が入っていた。冷蔵庫の中には人肉以外に食糧らしきものが見当たらなかった。これはダーマーが被害者を食して生活していたことを示唆していた。


後の法廷でダーマーは、切断した身体の一部を切り取っては、塩とこしょうで味付けして食べていたと証言している。

ダーマーが殺害して解体した人間は17人。裁判では懲役936年という異例の判決が下った。ウィスコンシン州ポーテージにあるコロンビア刑務所に収容されたダーマーの独房は、総ガラス張りで24時間監視つきという、これも異例のものであった。

1994年11月28日、ダーマーは、クリストファー・スカーバーという同じ刑務所内に服役していた黒人男性に鉄の棒で頭を殴られて殺害され、刑務所内でその一生を閉じた。

http://serialkiller.web.fc2.com/foreign/jeffrey_dahmer.html




●昭和38年 狭山事件


周辺で6人が変死..本当に犯人だったのか?
出典 www.amazon.co.jp


女子高生が誘拐され、殺害されるという事件が起こった。犯人として石川一雄が逮捕されたが、証拠も不自然なもので冤罪(えんざい)の可能性が高い。石川が逮捕された後、当事者たちの身近にいた人たちが6人も自殺や変死を遂げた。

▼事件発生

昭和38年5月1日、埼玉県狭山(さやま)市内の、川越高校 入間川分校の1年生である中田善枝さん(16)は、15時30分ごろ自転車に乗って学校を出た。この日は善枝さんの16歳の誕生日で、家族は赤飯を炊いて善枝さんの帰りを待っていた。

しかし18時を過ぎても善枝さんは帰ってこない。後の調査で、善枝さんがガード下で誰かと待ち合わせをしているようなところが目撃されているが、それを最後に行方不明となってしまった。

心配になった長男(25)が学校へ出向き、善枝さんのことを尋ねたが、生徒は全員下校しているとのことだった。

「行き違いで、もう帰っているかも知れない。」そう思った長男は、とりあえず家に帰ってみた。だが、善枝さんはまだ帰っていなかった。時間は19時30分になっていた。

心配ながらも家族で夕飯を食べながら善枝さんのことを相談しあっていたが、19時40分ごろ、長男が玄関のガラス戸に白い封筒がはさんであるのを見つけた。

19時30分に長男が帰宅した時にはこの封筒はなかったから、このわずか10分の間に差し込まれていたものと思われる。

手にとってみると、封筒には宛名のところに

少時様 中田江さく

「少時様」が取り消し線で「中田江さく」と書いてあった。「江さく」とは、善枝さんの父親である中田栄作のことであろう。

中を開けてみると、そこには善枝さんの生徒手帳と脅迫状が入っていた。

(脅迫状には次のように書かれていたが、字の能力がないのかわざとか、漢字の使い方もメチャクチャで原文は極めて読みにくい。右が訳文。)

少時様 このかみにツツんでこい



子供の命がほ知かたら4月29日の夜12時に、
               五月2日

金二十万円女の人がもツて前の門のところにいろ。
                さのヤ


友だちが車出いくからその人にわたせ。


時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。

刑札には名知たら小供は死。

もし車出でいツた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かツたら


子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いツてみろ。

もし車出いツた友だちが時かんどおりぶじにかえツて気たら

子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける、

くりか江す 刑札にはなすな。気んじょの人にもはなすな

子供死出死まう。


警察には話すなと書かれてあったが、長男はすぐに隣の親戚に知らせ、そのまま警察にも届け出た。脅迫状を見つけてから、わずか15分後には警察に知らせるという素早い行動だった。

この時、庭の物置の前のいつもの場所に善枝さんの自転車が返されているのを父親が発見している。犯人が脅迫状と一緒に自転車も持って来たものと思われる。


▼犯人との取り引き

脅迫状によれば、5月2日の夜12時に佐野屋酒店の前に友達が金を受け取りに行くから、その男に金を渡せ、女が金を持って来い、となっている。

金を持っていく役目は善枝さんの姉である登美恵(23)が引き受けた。

善枝さんの家は母親はすでに死亡しており、父親の他は、男が3人兄弟、女が5人姉妹で、善枝さんは四女である。ただし姉妹のうち一人は死亡しており、一人は東京に住んでいたため、事件当時、実家に住んでいた善枝さんの兄弟は、男が3人、女は善枝さんを含めて3人である。登美恵は次女にあたる。

そして指定された5月2日。登美恵は長男に車で送ってもらって23時50分ごろ、指定された佐野屋酒店の前に立った。手には警察から用意してもらった偽造紙幣の20万円を持っていた。

まだ街灯もあまりないような時代であり、辺りは真っ暗である。佐野屋を中心に周りには40人もの警官が息をひそめて犯人の出現を待っていた。

「おい、来てんのか!」
と、犯人か、その友人かは分からないが、一人の男が暗闇の中から登美恵に声をかけた。男のいる位置は佐野屋の横の畑の中で、登美恵からは30メートルくらい離れている。

警官たちにも緊張が走る。

「はい、来てます。」と登美恵が答える。

「警察に話したんべ! そこに2人いるじゃねえか!」

「1人で来てますからこっちに来て下さいよ!」

登美恵と男との会話が数回繰り返された。だが、次の瞬間、男は周りの警官たちに気づいのか、猛ダッシュして全力で逃げ出した。

「逃がすな!」と警官たちが一斉に追う。しかし相手の脚の方が速かった。追跡もむなしく、警察はこのまま男をとり逃がしてしまった。

たまたま犯人の近くに配備されていた警官が年配の人が多くて誰も追いつけなかったというのも理由の一つであるが、実際に間近に現れた相手を、40人もの配備を敷いておきながら逃がしてしまったというのは大失態であり、警察は後に世間から痛烈な批判を浴びることとなった。

翌日5月3日、警察は畑に残っていた犯人の足跡を、警察犬を使って追跡した。しかし途中にある小さな川の辺りで、犬は臭いを見失ってしまい、この方面からの捜査はこれ以上は無理となってしまった。

この、臭いを見失った場所の近くには、「石田養豚場」という養豚場があった。警察では、この石田養豚場に出入りしている者が犯人ではないかと考え始めた。


▼遺体発見

その翌日5月4日10時30分ごろ、善枝さんの遺体が発見された。

雑木林に通じる農道に埋められていた。穴の深さは1メートル弱で、善枝さんはうつぶせで、両手を手ぬぐいで後ろ手に縛られ、目には手ぬぐいで目隠しがされてあった。

スカートがまくられ、下着はヒザまで降ろされており、生前に強姦されていた。身体についていた精液から、犯人の血液型はB型であることが判明した。

後の解剖で、善枝さんは処女ではなかったことが判明しており、その時は合意のもとで行ったと判断されている。

また、抵抗した時に出来る身体の傷はなく、ほとんど無抵抗であったと思われる。
死因は首を絞められたことによる窒息死だった。首に指の跡がなかったことから、手で直接絞めたのではなく、何か帯状のもので絞めたものだと推測された。

5月11日には、遺体発見現場から124メートルほど離れたところにスコップが落ちているのを農作業している人が見つけ、事件との関わりを考えて一応警察に知らせた。

調べてみると、これは石田養豚場から盗まれていたスコップであり、付着していた土を遺体発見現場の土と照合してみるとぴたりと合い、遺体を埋める際に使われたスコップだということが判明した。

石田養豚場の経営者やその家族は被差別部落の出身であり、警察は、この養豚場に出入りする部落出身者を最も疑わしいと考えて捜査を進めた。

この事件は、部落出身者を集中的に疑うという捜査が行われ、後に部落差別問題として世間から非難を浴びることとなった事件でもある。そういった考えは捜査の最初の段階からあったと言える。


▼犯人逮捕

事件から約3週間後の5月23日、ケンカと窃盗の罪で一人の男が逮捕された。男の名は石川一雄(24)で、被差別部落に住んでいる青年だった。血液型もB型で、事件の3ヶ月前まで石田養豚場に勤めていた。

石川とその家族が住んでいる被差別部落は遺体発見現場のすぐ近くであった。

逮捕の理由こそケンカと窃盗であったが、警察は石川を善枝さん誘拐殺人の犯人として完全に疑っており、追求されるのはその件ばかりだった。

そして逮捕されたこの同じ日、石川の家には12人の刑事が訪れ、大々的な家宅捜査を行った。部屋の中はもちろん、天井裏や屋根の上まで調べ上げ、庭の土も掘り返すという徹底したものだった。

しかし石川の家からは事件の手がかりとなるようなものは何も発見されず、また、石川本人も善枝さん誘拐については頑として否定していた。

6月17日、ケンカと窃盗に対する拘留期間が終了したため、石川は釈放されたが、釈放と同時に今度は殺人容疑で逮捕され、石川は再び拘留されることとなった。

翌日6月18日には石川宅の2回目の家宅捜査が行われた。刑事14人が2時間かけて家を調べたが、この日も何も有力な証拠は見つからなかった。

一方、再び逮捕された石川は、これまでかたくなに誘拐殺人を否定し続けてきたが、連日の厳しい取り調べに疲れ果てており、「自供すれば10年で出してやる。」と、刑事から取り引きのようなことを言われ、石川はついに自供を始めた。

▼6人もの人間が変死と自殺

この事件は、事件発生後、被害者・善枝さんと少なからず関わりを持っていた人物が6人も自殺や変死を遂げており、その点が大きな謎となっている。

果たしてその中に真犯人がいたのか、あるいは共犯者が責任を感じて死を選んだのか、または、知ってはならないことを知ってしまったために自殺に走ったのか、多くの書籍により推理はされているが、明確な結論は出ていない。

<1人目>
善枝さんの遺体が発見されてから2日後にあたる5月6日、運送会社勤務の奥富玄ニ(31)が、農薬を飲んで井戸に飛び込み、自殺した。奥富は新居を建てたばかりで、明日が自分の結婚式であった。

奥富は善枝さんの実家である中田家に住み込みで働いていた時期もあり、善枝さんとも面識がある。血液型はB型。字は脅迫状の筆跡と良く似ていたという。

<2人目>
不審な3人組を見たと警察に通報した、情報提供者である田中登(31)が、5月11日、包丁で自分の胸を刺して自殺した。

「警察に協力したのに犯人扱いされた。」と悩んでノイローゼ気味になっていたらしい。

<3人目>
7月14日、中田登美恵(24)が農薬を飲んで自殺。登美恵は善枝さんの姉であり、誘拐事件の時、金の受け渡し役を務めた女性である。石川の死刑判決に相当なショックを受け、その時から精神に異常をきたし始めたと言われている。

<4人目>
昭和41年10月24日、事件から3年5ヶ月が経過していたがこの日、石田養豚場の経営者・石田一義の兄である登利造が、西武線入曽駅近くの踏み切りで電車に轢(ひ)かれて死亡した。
登利造は事件当時は弟の経営する石田養豚場に勤務していた。警察では自殺と断定。

<5人目>
昭和52年10月4日、中田家の次男・喜代治が首を吊って自殺。自分の経営する中華料理店の経営不振が原因とされている。被害者・善枝さんの兄弟は、これで2人自殺したことになる。

この年の8月に石川の無期懲役が確定し、石川は9月に刑務所に入っている。

<6人目>
昭和52年12月19日、この狭山事件について事件を再調査していたジャーナリスト片桐軍三(36)が、東京都豊島区の路地で何者かに襲われ、激しい暴行を受けた。頭骸骨の陥没や骨折、肋骨の骨折などの重症を負い、二日後である21日に死亡した。

▼判決

昭和39年3月11日、浦和地裁で行われた裁判では、石川は死刑判決となった。翌日石川は控訴した。

石川は一審までは犯行を認めており、否認もしていなかったが、9月10日に東京高等裁判所で行われた控訴審では、強引な取り調べや「自白すれば10年で出してやる」と持ちかけられたこと、自白を強要されたことなどを話し、一審で認めたことを一転して全面否定した。

昭和49年10月31日、東京高等裁判所無期懲役の判決が出され、上告するも、昭和52年8月9日には最高裁で上告が棄却され、石川の無期懲役が確定した。石川は千葉刑務所に服役することとなった。

http://ww5.tiki.ne.jp/~qyoshida/jikenbo/057sayama.htm


・関連まとめ



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