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Naverまとめの記事を記録として残してます

【閲覧注意】日本で起きた未解決事件

日本で起こった事件・事故、未だに犯人が見つかっていない未解決事件を一覧でまとめました。


◼︎高知大学探検部地底湖行方不明事件




平成20年1月5日、岡山県新見市にある鍾乳洞「日咩坂鐘乳穴(ひめさかたちあな)」に入っていた高知大学3年で学術探検部所属の名倉祐樹さん(当時21歳)が、洞窟内の地底湖を遊泳中に行方不明になった。
 名倉さんは中国・四国地方の大学探検サークルのコミュニティーで企画された合宿に、高知大学学術探検部員3名(計4名)と共に参加。合宿には他大学や社会人を合わせて計13名参加していた。
 日咩坂鐘乳穴には5名(構成不明)のグループで入る(必要な市教育委員会への入洞届は出されていなかった)。
 腹ばいになる狭い箇所やザイルを使って降りる場所を通って、約3時間後に入り口から1.6㌔ほど奥にある地底湖(直径約25㍍・水深約30㍍)へ到着した。
 到着後、名倉さんが一人で着衣のまま命綱などもつけずに調査の為に地底湖に入ったらしい。
 当然のことながら一人で、安全対策もせずに調査名目で地底湖に入ったことに疑問が示されている。
 合宿の恒例イベントとして地底湖で泳ぐというものがあったとの情報もあるが、確認はとれていない
 メンバーは当初声を掛けながら岸壁などを調査していたが、突如名倉さんの声が途絶え行方がわからなくなった。
 行方が分からなくなるまでの間、叫び声などは聞こえなかったという。
 残りのメンバーは洞慌てて窟を出て救助を要請した。

 
 しかし調査が始まるとたちまち胡散臭さが漂い始める。
 登山部などでは部長が隊長格として事故の記者会見に応じるのが常識だが、探検部長の白米美帆は記者会見などから逃げ回り一切の責任を放棄する行動を見せた。
 さらに探検部のホームページから部長白米美帆と副部長の伊藤智子の名が真っ先に削除される。
 極めつけはまだ捜査中にもかかわらず名倉さんのmixiが何者かによって削除されてしまう。
 結局名倉さんの遺体は見つからず捜査は打ち切られたが、もちろん削除したのは本人ではなくパスワードを知る知人の仕業であろう。

 地底湖は入口から片道3時間もかかる奥地にあり、洞窟の幅も人1人がやっと通れる狭さで途中には首まで水につかる難所もあったようだ。
 そのため捜査は難航を極め、地元消防も早々に捜査を断念した。
 しかもこの地底湖は水面にもやがかかっていて水も白濁しており、潜るとほとんど視界が利かない状態であった。
 そんな場所でなぜ名倉さんは泳がなければならなかったのか。
 まして季節は1月であり、地底湖の水温が多少高いとしても泳ぐという発想そのものが考えにくい環境である。

 名倉さんとともに入洞した人間の数も5名から4名、13名と報道のたびに訂正され、さらに探検に必要な装備は整えていたという発表がなされたにもかかわらず
 命綱はあったのかという簡単な質問にも全容の解明のためお応えできないという回答であった。

 
 2chで盛り上がりを見せるまさにその時、名倉さんのmixiが改ざんされ全公開から友人までの公開に変更、そして名倉さんの日記が全削除された。
 おそらく日記になかに洞窟のなかで酒宴をひらいたり、ケーキを食べたなどの記述を消したかったのだろう。
 このため2chでの関心が一気に加速。さらに高知大学探検部OBを名乗る者が、遊泳は探検部の伝統だった。酒にからんだ様々な危険な伝統が以前から存在したなどの暴露が行われる。
 炎上に伴い探検部員と見られる書き込みが相次ぎ内部抗争、というか痴話げんかのようなやりとりも見られる。詳しくはhimesaka@wikiを参照していただきたい。
 この暴露により探検部の部長副部長が女性であるなど、男女関係の確執により殺されたのではないかという疑惑が浮上した。
 しかし事故として捜査が断念された今、すでに事件は確定しており今後真実が明らかになることはあるまい。


 捜査にあたった機動隊の警部補が新聞のインタビューにこう答えている。
 「部員が遊泳中に行方不明になったという連絡を受け出動した」
 その後学術目的であった、探検に必要な装備は整っていた、不幸な事故だったと言いわけをしたいがために情報が錯綜し謎をよんでしまったのではないだろうか。
 管理人は大学生が悪乗りで酔った部員を死なせてしまい、就職や風評を怖れ隠蔽を図り追求から逃げ続けただけの事件ではないかと思う。
 しかし無責任な大学生の無謀な試みが1人の命を失わせたという事実は、追求されてしかるべきであろう。


◼︎世田谷一家殺害事件




21世紀を目前に控えた2000年12月30日午後11時頃から翌31日の未明にかけて、東京都世田谷区上祖師谷3丁目の会社員宅で、父親(当時44歳)・母親(当時41歳)・長女(当時8歳)・長男(当時6歳)の4人が殺害された。隣に住む母親の実母が31日の午前10時40分過ぎに発見し、事件が発覚した。

この事件は、20世紀最後の日に発覚した、大晦日に差し掛かろうとする年の瀬の犯行だったことや、犯人の指紋や血痕など個人を特定可能なもの、靴の跡(足跡)の他、数多くの遺留品を残している点、子供もめった刺しにする残忍な犯行、さらに殺害後に長時間現場に留まった可能性が指摘され、パソコンを触ったりアイスクリームを食べたりするなどの犯人の異常な行動、これらの多くの事柄が明らかになっていながら、犯人の特定に至っていないことでも注目される未解決事件である。また、年の瀬に発生した殺人事件という時期柄もあって、一年を振り返る区切りとなる年末近くになると、警視庁による情報公開が行われ、マスコミが話題に取り上げることが多い事件である。

玄関を入るとすぐに書斎がある。被害者宅1階部分のほとんどを占めるこの書斎は、父親が仕事部屋兼応接間、子供の学習部屋として使用していたものであり、現金約6万円が手付かずであった大きな本棚や犯人がインターネットを閲覧した形跡のあるパソコンも置かれていた。2階への階段脇には浴槽に散乱していた書類の一部が元々あったとみられる納戸もある。さらに、トイレや洗面所、犯人の入出経路とされる浴室、長男が殺害されていた子供部屋、バルコニーがある中2階、台所やダイニングルームとその奥の犯人によって物色されていた居間がある2階、そして母親と長女が寝ていた屋根裏部屋(ロフト、3階)の4層構造になっている。本記事では中2階と2階を区別なく「2階」と表記している。 なお、屋根裏部屋へは折り畳み式のハシゴを降ろすことにより、中2階の踊り場(洗面所付近)から上ることが可能となる。また、犯人の横歩きの足跡は「1階から中2階間」の階段に付いており、「中2階から2階間」の階段は4段のみである。この他、隣家の親族宅と外観では接続しているようにも見えるが、内部的にはしっかりとした壁で隔たれており繋がっていない。

一方、3種類の粉末蛍光染料が発見された車庫は事件発生時にシャッターが閉まっており、犯人が侵入した形跡はなかった。車庫前には1台分の小型車を停めるスペースがあり、事件直後のニュース映像では一家所有の車がこのスペースに置かれているのが確認できる。

2013年12月には、3Dプリンターで作られた被害者宅の模型を警視庁が公開した。この模型は事件の捜査にも活用される。


父親は1階の階段下で外出着姿(片足が裸足)、母親や長女は2階階段踊り場付近、長男は2階の子供部屋でそれぞれジャージなどの寝巻姿で発見されたとされる。

事件の第一発見者である母親の実母は発見時に母親や長女らの遺体に触れていたため、警察の現場検証ではなく実母の証言によるものとなるが、父親の遺体の上には引き出しが乗せられていたといい、さらに母親の遺体は全体が黒っぽい山のように見えたとも証言していることから顔を含む全体に洋服が被せられていた可能性があるという。ただし、前述のように警察が到着した時点では一部動かされてしまっていたため、遺体の顔まで引き出しや洋服により覆われていたというのは確実な情報ではない。この他、長男は頭の方から布団が被せられており、長女は顔が下向きになっていた。被害者の顔を隠すのは、犯人が顔見知りの場合に多いとされる(時事通信 2010年12月25日付)。

この他、現場は「血の海」でなかったと前述の母親の実姉が記している(法学セミナー 2002年10号)。

さらに事件発覚時、1階の電気はついていたと一部で報じられている。週刊文春(2001年1月25日号)によると、新聞配達員が31日早朝に新聞の朝刊を配達したときには被害者宅の玄関の電気は消えていたが、殺害された母親の実母が現場を訪れたときには電気がついていたという。なお読売新聞(2014年12月12日付)によると、未明には被害者宅の電気が消灯していたという通行人の証言も出ており、犯人がこの時間帯には現場から逃走していた可能性の一部として報道されている。


匿名掲示2ちゃんねるのペット大嫌い板(現生き物苦手板)で、2000年12月27日の午後5時3分頃、当該事件の犯行予告ではないかと思わせるような書き込みがあった。
また、その他にも犯行前後の2000年12月26日および翌年1月4日において「主犯」と「実行犯」がネットで連絡していたのではないかと騒がれた書き込みもあった(それぞれ「J9」「H」と名乗っていた)。


◼︎大阪府熊取町の謎の連鎖自殺




1992年6月から7月にかけて、大阪府熊取町で17歳から22歳の若者が連続して自殺、変死するということがあった。一週間ごとに、それも決まって水曜日か木曜日に自殺するというミステリーで騒がれた。

熊取町・・・・大阪府南部。泉南郡に属する。人口約43000人。


――――――――


【熊取の少年少女】

 事件自殺した5人については以下の通り。

6月4日(木)  無職・A君(17歳)が自宅そばのタマネギ小屋で首吊り自殺

6月10日(水) 土木作業員・B君(18歳)がかつて住んでいた家の納屋で首吊り自殺。

6月17日(水) 旅館従業員・C君(18歳)が農作業小屋で首吊り自殺。

6月25日(木) 熊取町在住の岸和田市職員D君(22歳)が町内の森で首吊り自殺。

7月2日(木)  熊取町内の女子大に通うE子さん(19歳)が胸を果物ナイフで刺し自殺。

 また5人の自殺の前に2人の17歳が亡くなっていた。

4月29日(木) シンナーによって板金工のX君(17歳)が熊取町内の貯め池に落ちて死亡。

5月29日(金) 無職・Y君(17歳)がシンナー吸引による心不全で死亡。

 シンナーで死んだ2人を合わせると、死体が見つかった場所はすべて半径1.2km以内に集中している。この狭い範囲の中、2ヶ月半で7人の若者が亡くなっていた。

自殺、不審死の熊取町の若者たちのうち、岸和田市職員のD君と女子大生のE子さん以外の5人はシンナーやバイクをキーワードに接点があった。

A君・・・・17歳。中学3年時はほとんど登校せず、パチンコ店などに繰り出していた。当時の同級生によると、B君よりも”暴れもん”という印象だったという卒業後は美容師の専門学校に入学するが中退、事件当時は無職だった。1991年、B君、C君らとともに暴走族を結成。特にB君と仲が良かったようだ。シンナーを常用しており、B君とはバイク仲間でありシンナー仲間であった。

B君・・・・18歳。熊取の不良達の間では有名だったという。A君、C君らと立ち上げた暴走族のチームでは特攻隊長のような役割をしていた。当時、妊娠中の彼女がいて入籍する予定もあり新しい住まいもすでに決まっていた。A君の葬儀では「何で死んだんや」と悔しがり、「俺たちはしっかり生きていこう」と仲間を励ましていた。だがその数日後、自身も自殺する。

C君・・・・18歳。高知出身。野球少年で、野球の強豪校に進学したが中退、その頃高知にやって来ていたB君の友人を通してB君と知り合い仲間となる。その後、熊取町にやって来てB君の父親が経営する土建会社でB君と一緒に働いていたりした。B君が自殺した当時は三重県鳥羽市の旅館で手伝いをしていたが、自殺の報せを聞き熊取町に戻ってきた。しばらく友人達と会ったりしていたが、「以前付き合っていた女性(当時17歳)に会いたい」と思い、2人の友人を連れて女性に会いにいった。だが女性から「もうすぐ他の男性と結婚する」と聞き、友人に「ロープはないか」と言っていたという。その6時間後、自殺死体となって発見される。

D君・・・・22歳。岸和田市職員。

E子さん・・・19歳。鳥取県米子市出身。地元の高校を卒業後、大阪体育大学に進んだ。高校時代はソフトボールをやっていたが、大学進学後は陸上競技に転向した。町内の学生寮に住んでいた。遺書はなかった。

X君・・・17歳。A君・B君の中学時代の後輩で在学中に交流があった。Y君とは同じ中学。

Y君・・・17歳。A君・B君とバイク仲間だった。3人でよく熊取近辺を走っていたという。


【不審な点】

 自殺とするには不審な点が多く見うけられた。

☆A君の「借金を返して欲しい」というメモ以外は、誰も遺書らしきものを用意していなかった。死ななければならない理由も思い当たらない。

☆農作業小屋で首を吊ったC君はなぜか手首を後ろ手に縛っていた状態で死んでいた。警察は衣服に乱れのないことと、自分1人でも縛れる結び方だったので自殺と断定した。これから死のうとする人間がどうして手を縛る必要があったのか。(衣服が汚れていた、という目撃証言もあった)

☆D君は熊取と隣りの貝塚市の境界近くの小高い丘にあるクリの木でシャツで首を吊って自殺したが、そのシャツはとうてい手の届かない高い枝にかかっていた。

☆体育大生だったE子さんは住宅地の中のグラウンドを背にした道路でナイフで首と胸を刺して死んだ。遺体は道路沿いの細い側溝にはまっていた。時間はまだ人通りのある8時過ぎ。なぜこんな目立つ場所での死を選んだのだろうか。また、E子さんは陸上競技の自己ベスト記録を出したばかりで喜んでいたばかりだった。死ぬ理由など思い浮かばない。当日、血だらけの状態で発見されたE子さんは意識が朦朧とする中で「違う、違う」と繰り返していたという。

☆B君、C君、E個さんの3人は以前から知人や家族に「車に追われている」と話していた。B君は「白いクラウンに追いかけられている」と母親に漏らし、それを聞いた母親がC君に尋ねてみると「何度かそういうことがあった」と話したという。E子さんは友人に「黒い車につけられている」と話していた。


【トピックス もうひとつの連鎖自殺】

 同1992年、仙台市でもうひとつの連鎖自殺が発生していた。

 まず2月9日の夜、農業高校2年生のA君(17歳)が自宅で首吊り自殺した。家族への感謝を綴った遺書があった。
 A君は両親からは普通高校を勧められていたが、「機械の勉強をしたい」と、農業機械のある高校へ進学した。
 
 続いて4月1日には3年生になったばかりのB君(17歳)も自宅で首吊り自殺。A君とは中学時代からの親友であり、別々の高校に進んでも休日などは一緒に遊ぶ仲であった。葬儀の時には泣き続けており、親友の死にかなりのショックを受けたものと見られた。
 
 3人目は4月9日、A君と同じ高校に通うC君(17歳)もやはり自宅で首を吊って自殺した。C君は、A君とB君と一緒の中学出身で、自宅もそれぞれ数百mしか離れていなかった。C君は直前、家族に「いじめに遭っている」と相談していたが、高校側は「そうした事実はなかった」とした。

 3人の死について県教委も「関連性はなく、偶然の重なった出来事」とした。


◼︎広島一家神隠し事件




広島県世羅町岡山県との県境に近い山間の町で「一家全員がペットの犬と共に失踪」という不可解な事件が起こった。

失踪したのは同町に住む山上さん一家。山上さん宅は

建設会社勤務:政弘さん(58)
妻:順子さん(51)
山上さんの母:三枝さん(79)

の3人暮らし。他に愛犬の「レオ」が一緒に暮らしていた。

小学校教諭の長女:千枝さん(26)

竹原市内にアパートを借りて独り暮らしをしていた。
千枝さんは、二十歳のときにはミス世羅の「'95フルーティーせら」にも選ばれていた。

事件が発覚したのは、2001年6月4日。
この日は順子さんが勤める会社の中国への社員旅行の出発日だったのだが、集合時間になっても現れない順子さんを心配して迎えにいった同僚が、
誰もいない山上さん宅の異変に気づいた。山上さん一家は忽然と姿を消してしまっていた。
朝5時ごろに、新聞配達員が訪れたときには、正弘さんの車がなく、すでに家中に人の気配もなかったという。
親族から捜索願いをうけ、広島県警甲山署は機動隊やヘリコプターを動員して付近を捜索するも、一家の姿を見つけることはできなかった…

奇妙な状況
失踪時の山上さん宅について以下の奇妙な状況が幾つも重なっている

玄関の鍵は締まっており、侵入や争った形跡、血液反応もない。ただし勝手口の鍵は開いていた。
順子さんのバッグには、旅行代金15万円が入ったまま残されており、一家の定期貯金も手つかずのままである。
山上さんの車がなくなっていたことから、その車で出かけたと思われるが、
順子さんと千枝さんの携帯電話と免許証、政弘さんのポケベルも置いたままである。
玄関からは4人分のサンダルが無くなっていたが靴はそのまま。
順子さんが行くはずの旅行に持っていくであろう鞄が準備されていた。
またパジャマが見当たらず普段着が畳んであったことから、サンダル履きのパジャマ姿でほとんど何も持たず家を出たことになる。蒸発するにしてはあまりにも不自然な格好である。
母屋の台所と廊下の電灯がついたままで、翌朝の朝食が虫除けネットをかけた状態で準備してあった。

上記のことを考えると、失踪は想定外の突発的な出来事であったと想像できる。反対に、「拉致」という線で考えても

争った形跡がない(前述)
近所の人が争う物音を聞いていない。
ペットの犬も一緒に姿を消してしまっている。(犯人が鳴き声など厄介が多い犬をわざわざ連れ出すことは考えにくい)

と「失踪」「拉致」のいずれかで考えても、その動機が見当たらない。
さらに、山上さん一家の周りには特にトラブルもなく、恨みをかうような人ではないと多くの者が証言している。
金銭的に困っていたという事実も出てこない。妻の順子さんは旅行を楽しみにしていたし、長女千枝さんは職場のアイドル的存在でトラブルの噂もない。
そして将来を約束した男性がいて幸せの最中である。
まったく失踪する理由が無いのがこの事件の特徴であるといえる。

失踪した時間
一家で一番最後まで消息がわかっているのは長女の千枝さん。

前日PTAの球技大会とその後竹原市内での親睦会に出席
午後9時半頃には同僚の教師を自らの車で送り届ける(千枝さんは、母の順子さんと電話をしていたのを同僚が聞いおり、その内容は千枝さんが化粧品を忘れたので実家に取りに行くというもの。
その後同僚は自宅前で千枝さんと別れている。(これが最後の目撃証言)

近所の人は午後10時50分頃に

「バタン」

という車のドアが閉まる音を聞いているが、

千枝さんが実家に到着し降車したときの車のドアの音
山上さん一家が乗車するときの車のドアの音

のどちらであるかは不明である。
自宅のシーツに乱れた後がなく、翌朝午前4時に新聞配達員が訪れた時には
すでに人の気配がなく山上さんの車もなかったことから、3日10:50から4日04:00にかけて失踪したことになる。


遺体発見
ダム湖の車に4遺体 広島、不明一家が心中か
7日午後零時45分ごろ、広島県世羅町京丸の「京丸ダム」の湖底に車が転落しているのを通行人が見つけ、甲山署に通報した。
同署が引き揚げて調べたところ、昨年6月4日から家族4人で行方不明となっていた世羅町戸張の会社員山上政弘さん=当時(58)=
の乗用車と分かり、車内から4人の遺体が見つかった。
甲山署で遺体を見た山上さんの親族は同日夜、山上さん一家と確認した。同署は車に損傷がなく、周辺に事故の形跡もないことなどから
一家心中の可能性もあるとみて捜査している。
行方不明になっていたのは山上さんのほか、妻の会社員順子さん=当時(51)、長女の元小学校教諭千枝さん=同(26)、母三枝さん=同(79)。
調べによると、車は岸から約1メートルの湖底(深さ約3メートル)に裏返しの状態で沈んでいた。
湖底から約8メートルの高さにある側道から落ちたとみられる。
2002/09/07 15:30 【共同通信

失踪から1年以上が経過した、2002年9月7日。
世羅町にある「京丸ダム」の湖底で、通行人が車が裏返しで湖底に落ちているのを発見する。
車のナンバーから山上さん所有の車と判明。車内から4人と愛犬の遺体が見つかった。
雨不足によって水位が減少したことが車の発見に繋がったのだ。
甲山署は・遺体に目立った外傷がないこと・車のキーがささったままであり
場所的にも

転落したと思われる場所の入り口には車止めがあり誤って進入する場所ではない

という状況から無理心中の可能性が高いとみている。
失踪、拉致の両面のいずれも考えにくい、
心中とするならその動機も考えにくい

楽しみな旅行
将来を誓った婚約者
不自由の無い暮らし

心中として解決してしまった今では、真相はすべて闇の中である。


◼︎長岡京殺人事件




1979年5月23日、長岡京市内にあるスーパーでパートをしていた主婦2人が、仕事終了後、近くの山の竹林にワラビ採りに行ったまま消息不明となり、2日後の25日、山頂付近で遺体となって発見された。

直接の死因は主婦A(当時43歳)が絞殺、主婦B(当時32歳)が刺殺。2人のリュックには、それぞれ空の弁当箱、採ったワラビ、財布が入ったままであった。検死の結果、死亡時刻はどちらも正午過ぎから2時半までと判明。

どちらも金を奪われた形跡はなかったが、主婦Aの衣服のポケットから
“ オワレている たすけて下さい この男の人わるい人 ”

と鉛筆で走り書きをした、勤務先のスーパーのレシート(日付は事件当日より2日前)が発見される。だが、どちらの荷物にも衣服のポケットにも、この鉛筆がなかった。後日の捜索で、殺害現場から少し離れたところで芯の先端だけが見つかっているが、鉛筆そのものは見つからなかった。

主婦Aは全身30箇所以上も殴打され、肋骨が折れて、肝臓が破裂しており、体内からは犯人のものと思われる体液が検出された。主婦Bは全身50箇所以上も殴打され、包丁が体に突き刺さったままだった。なお、主婦A、B共にアキレス腱が切られていた。なお警視庁の鑑定結果によると、犯人の血液型はO型と判明している。犯行現場は、殺された主婦たちのように、ピクニックがてら山菜採りに地元の人が訪れているようなところだったが、犯行発生前から木や竹が生い茂り、昼間でも薄暗いところが多く、レイプ事件も発生していた。遺留品は主婦Bの遺体に突き刺さっていた包丁1本のみで指紋は検出されず、販売ルートも解明されずじまいだった。そして、有力な手がかりも得られないまま、1994年5月24日に公訴時効が成立した。


長岡京市内に住む少年Aが、犯行時間内に駆け足で下山するところを目撃されており重要参考人となるも、実は犯行当日は一日中、別の場所にいたことが判明した。彼が空手を習っていて、よく山にサイクリングにきていることを知っている人物からの目撃情報だった。
・主婦らが山に入った10分後、25歳から30歳の男性二人組が目撃されていたが、身元判明できず。
・主婦たちが殺害される1週間前に、入山していた主婦に声をかけた中年男性がおり、似顔絵を製作したが身元判明できず。


【もう一つの事件】
事件から約5年後、同市で主婦Cが首や背中をメッタ刺しにされた上、布団に包まれた状態で火を点けられて殺害されるという残忍な事件が発生した。警察がこの事件と長岡京殺人事件の関連性を調べていたことが判明して、次のような噂が出現した[要出典]。

主婦Cはかつて最初の事件当日、主婦AやBとワラビ採りに出かけたが、先に一人で下山したので殺害から免れた。マスコミと警察は報道協定を結んで、主婦Cの安全のため彼女の存在を公表しなかった。
後日、主婦Cは何らかのトラブルでワラビ採り殺人の真犯人に殺された。

ところが第二の殺人事件の警察記者会見では、最初の殺人事件と主婦Cとの関係はまったく言及されず、マスコミ関係の人物から報道協定についての証言は一切得られず都市伝説のレベルである。ただ、残った血液型はO型で右足の第二指が突出していることが判明している。この事件も同様に未解決となっている。


◼︎井の頭公園バラバラ殺人事件



出典 amanaimages.com


1994年4月23日午前、東京都三鷹市にある井の頭恩賜公園のゴミ箱にポリ袋に入った人間の足首が捨てられているのを、猫の餌を探すため偶然ポリ袋を開けた清掃員の女性が発見した。

駆けつけた警察官らが公園一帯を捜索したところ、計27個に切断された手足・胴体の一部が袋に入って7か所のゴミ箱から発見された。袋は小さい穴のある水切り用の黒い袋と半透明の袋の二重になっており、漁師らが使う特殊な方法できつめに結ばれていた。

手足の指紋はほぼ全て削り取られていたが、わずかに残っていた指紋とDNAから、被害者は公園の近くに住む一級建築士の男性(当時35歳)と判明した。死因は不明。肋骨の筋肉繊維にわずかな生前出血の跡があった。

この事件について、目撃証言などから怨恨説や後述の事故遭遇説、遺体の状態が複数人による組織的な犯行や異常性を匂わすことから宗教団体関与説など様々な説が錯綜していた。しかし、被害者の交友関係からは全く犯人像が浮かばず、また、犯人に結びつく物証や情報が乏しく、2009年4月23日、犯人の特定に至ることなく公訴時効成立を迎えた。犯人の動機など不明な部分が多い事件である。

切断されていた遺体は、関節や臓器などを無視して長さや太さも揃えられ、電動ノコギリのようなもので20cm間隔に切断されていた。これは、公園内のゴミ箱の投入口サイズである縦20cm、横30cmにほぼ合っていた。 また、血液が一滴残らず完全に抜き取られていた。そういった作業を行うには、一般家庭の設備では給排水が追いつかないほどの大量の水と医学的知識が必要である。さらに、手足の指紋はほぼ全て削り取られていた。遺体の切断方法は少なくとも3パターンあり、複数犯説の根拠の一つになっている。

発見された遺体は体全体の3分の1ほどで、被害者の頭部、胴体の大部分は現在も見つかっていない。残りの遺体は、事件発覚前日の22日に公園のゴミ箱に捨てられ、ゴミ収集車に運ばれ処分されたとする説もある。

切断されていた遺体は、関節や臓器などを無視して長さや太さも揃えられ、電動ノコギリのようなもので20cm間隔に切断されていた。これは、公園内のゴミ箱の投入口サイズである縦20cm、横30cmにほぼ合っていた。 また、血液が一滴残らず完全に抜き取られていた。そういった作業を行うには、一般家庭の設備では給排水が追いつかないほどの大量の水と医学的知識が必要である。さらに、手足の指紋はほぼ全て削り取られていた。遺体の切断方法は少なくとも3パターンあり、複数犯説の根拠の一つになっている。

発見された遺体は体全体の3分の1ほどで、被害者の頭部、胴体の大部分は現在も見つかっていない。残りの遺体は、事件発覚前日の22日に公園のゴミ箱に捨てられ、ゴミ収集車に運ばれ処分されたとする説もある。


◼︎岡山・津山少女刺殺事件




2004年9月3日午後3時15分頃、津山市総社の市立北小学校3年の筒塩侑子ちゃん(当時9歳)が帰宅直後に刺殺され、倒れているのを侑子ちゃんの姉(当時15歳)が発見した。
学校から帰宅して倒れているのが見つかるまで20~30分しかなく、帰宅直後に犯人が侵入し、襲った可能性が高いと見られている。
侑子ちゃんの帰宅時、家族は全員外出していた。

姉が玄関近くの8畳間で倒れている侑子ちゃんを見つけたのは、午後3時35分ごろ。
その際、玄関に鍵はかかっておらず、侑子ちゃんが持っていた鍵はランドセルと一緒に室内にあった。
母親は、家を出る時にはきちんと鍵をかけたため、牛乳箱の中の合鍵が使われたか、帰宅した侑子ちゃんの背後から押し入られたのではないかと考えられる。
また、侑子ちゃんに衣服の乱れや犯人に抵抗したあとは認められず、室内に物色された様子もなかった。

近隣住民も事件当日に鳴き声や不審な物音を聞かなかったことから、当初は顔見知りの犯行とされ、家族に疑いの目が向けられた。
しかし、事件のあった時間、母親は仕事に出ており、父親・祖母も外出、長男は中学校におり、それぞれにアリバイが成立した。

事件直前には通学路の途中で「ボサボサ髪の若い男」が目撃されている。
この男は侑子ちゃんの自宅から南西に約100メートル離れた高架の下におり、「近くにいた女児に向かって薄笑いしていた」との情報がある。
この女児が侑子ちゃんだった可能性もあり、捜査本部は男の似顔絵を基に、特定に全力を挙げているが、未だ未解決である。


◼︎廿日市女子高生殺人事件




廿日市女子高生殺害事件(はつかいちじょしこうせいさつじんじけん)は2004年10月5日に広島県廿日市市に住む高2女子生徒(当時17歳)が自宅で刺殺された事件。捜査特別報奨金制度対象の事件で、現在も未解決となっている。



2004年10月5日
午後3時ごろ、広島県廿日市市上平良の自宅にて、長女が若い男に刃物で刺された。

長女は高校から帰宅後、自宅離れ2階の自室で仮眠を取っていた。
長女の悲鳴と階段を駆け下りる音を聞き、祖母と妹(次女)が駆けつけた。離れ玄関先で長女が刺され、大量の血があった。
長女の部屋の枕元の音楽機器に接続されていたイヤホンが外れており、長女はあわててベッドを離れたと思われる。
離れ1階で男は祖母にも襲いかかり、背中や腹を10ヵ所ほど刺して逃走した。
妹は裸足のまま、30m離れた近所の園芸店に助けを求めた。
長女と祖母は重体に陥って病院に運ばれた。長女はまもなく出血多量で死亡、祖母はその後回復した。

長女は学校内でのトラブルなどもなく、犯人の動機は不明。
被害者を1階の玄関まで追って刺すという、凶悪性の高い犯行。
2008年
被害者の家族らは300万円の懸賞金を用意し、犯行当日の目撃者や、犯人に心当たりがある者に呼びかけた。

被害者の遺品は、警察が捜査のために一時的に預かっていた。後にそのほとんどが返却されているが、携帯電話は返却されていない。

携帯電話には、被害者と何らかの関係があると思われる男性2人組の名前が登録されている。
しかし、被害者の行動範囲は塾・学校・自宅周辺と非常に狭いものであり、友人や家族でさえも心当たりのない人物である。
この人物は「○くん」と言う敬称から、同世代の男性であると思われているが、身元は分かっていない。

これらの情報は、「奇跡の扉 TVのチカラ」にて報道された。2012年1月に放送された「ニュースウオッチ9」によると被害者の爪から犯人と思われるDNAが検出されていることが報道された。

被害者の祖母と妹が「犯人が20歳位」だという目撃証言をもとに犯人の似顔絵を作成したが、フジテレビ系列の金曜プレミアムにて「最強FBI捜査官が挑む!日本未解決事件ファイル」が放送され、元FBI捜査官が被害者の友人を事情聴取し、「かつて密接な人がいた」との証言をもとに元FBIの行動分析課(Behavioral Analysis Unit、BAU)が鑑定した結果、犯人が被害者と同年代の可能性があると指摘した。


◼︎舞鶴高1女子殺害事件




2008年5月6日、女子高生(当時15歳)が夜午後10時以降に自宅を出た後、翌5月7日午前0時50分頃友人に「国道沿いのドラッグストア付近にいる」と携帯電話で話し、その直後に東京に住む兄に携帯メールを送信したのを最後に行方が途絶えた。同日午前9時頃に女子高生が家に帰らないため、女子高生の家族が捜索願を出す。翌5月8日午前8時45分頃に雑木林で女子高生は遺体として発見された。死因は失血死で死亡時刻は5月7日未明とされる。バールのようなもので女子高生の顔や頭など数回殴って殺害した上、遺体に土や枯れ葉をかけて隠していた。

発生当初の5月、捜査機関は交友関係を調べれば犯人に結びつくとして、犯人特定に楽観的な見方もあったが、捜査は難航する。女子高生に周辺とのトラブルは無く、事件の直前に掛けていた携帯電話の通話やメールからも犯人には結びつかなかった。

一方で、5月7日未明に女子高生と黒い服を着て自転車を押す男性が一緒に現場に向かう府道を歩いているのが複数の防犯カメラの記録に残っていた。聞き込みを続けた結果、8月に現場近くに住む男性(事件当時59歳)が容疑者として浮上。この男は5月6日夜から7日未明に市内の飲食店二店を自転車で訪れ、帰途のコースと時間帯が女子高生が通過したものと重なり、男性は防犯カメラに映った「自転車の男」と体格で同一人物とみて矛盾しないとの鑑定結果も出て、さらに男性は当日は黒い服を着ていたことも判明した。

11月15日、男性は7~8月に女性下着1枚と賽銭約2000円を盗んだ窃盗罪で逮捕される。11月26日、窃盗罪で家宅捜索が行われた後起訴。11月27日、5月に発生した殺人罪死体遺棄罪容疑で捜索令状を元に2回目の家宅捜索を行おうとした。しかし、男性の弁護人が捜索令状の取り消しを求める準抗告を申し立てたため、延期。その後、準抗告が棄却されて2回目の家宅捜索が入ったが、1日遅れで家宅捜索が始まり、弁護人が記録用のビデオカメラで撮影しながら捜索に立ち会うという状態になった(弁護人のビデオ撮影は府警からの申し入れで途中で中止になったが、立会いは最終日まで続けられた)。家宅捜索は12月4日まで6日間続き、約2000点が押収された。

2009年2月26日、男性は窃盗罪で懲役1年が確定し京都刑務所にて服役。2009年4月7日、男性は殺人事件による殺人罪死体遺棄罪で逮捕。身柄を山科警察署に移されて取り調べを受け、4月29日、殺人罪と強制わいせつ致死罪で起訴。同日京都拘置所に移送された。5月21日から始まる裁判員制度を目前にしての起訴であった。

男性は殺人事件直後に事件の日に着ていた黒い服を捨てていたり、所有する複数の自転車の色が事件直後に塗り替えられて、また凶器と見られるバールを数年前から持っていたが事件直後に無くなるなど数々の不可解な点があり、捜査機関はこれらのことを証拠隠滅のためだったという見方をしている。また36年前の1973年9月に男性(この時25歳)は内縁の妻との別れ話から内縁妻とその兄を殺害した後に住人の女性2人を人質に立て篭もった事件で懲役16年の有罪判決を受け、1991年9月に路上で女性を強制わいせつしようとした強制わいせつ罪や傷害罪で懲役5年の有罪判決を受けた経歴が明らかになった。


2010年12月21日、23回の公判前整理手続を経た上で、初公判が京都地裁(笹野明義裁判長)で開かれた。状況証拠の積み重ねだけで、直接の物証がない事件としても注目が集まった。

10回にわたる公判で以下のことが主な争点となった。

・事件直前、被疑者と被害者が一緒にいたとする目撃者2人の証言は信用できるか否か
・事件直前、防犯カメラに映っていた、自転車を押しながら被害者と一緒に歩く男は被疑者か否か
被疑者が聴取において他人真犯人説主張の際に行ったとされる被害者遺留品の特徴の供述は、事件当時に現場にいたことを示す「秘密の暴露」か警察の誘導か

3月18日に検察側は死刑を求刑、弁護側は無罪を主張した。

2011年5月18日、京都地裁は防犯カメラの画像の検察側の画像鑑定は「単なる印象に基づくものが多い」として証拠能力を否定したが、目撃証言や防犯カメラから死亡直前の被害者と一緒にいたことを認定し、未公表の被害者遺留品の供述に捜査上の問題はないとして証拠能力を認めて有罪としたが、偶発的な犯罪であることから死刑を回避して無期懲役判決をした。弁護側は判決を不服として大阪高裁に即日控訴した。

2012年12月12日、大阪高裁(川合昌幸裁判長)は京都地裁無期懲役判決を破棄し、逆転無罪の判決を言い渡した。2014年7月10日、最高裁判所は検察側の上告を棄却し、これにより二審の無罪判決が確定した。

この事件の元被告が2014年11月5日に大阪市北区で女性を刺したとして殺人未遂で現行犯逮捕された。元被告は2013年8月に窃盗事件で有罪判決を受け2014年9月末に出所していた。


◼︎島根女子大生死体遺棄事件




2009年11月6日、広島県島根県の県境に近い広島県北広島町臥龍山(がりゅうざん)山頂付近で、女性の頭部が発見された。DNA鑑定の結果、島根県浜田市で10月26日から行方不明になっていた19歳の女子大生と確認された。死亡時期は約1週間前から2週間前。広島県警島根県警は合同捜査本部を設置して残りの遺体発見、容疑者特定などの捜査を開始。11月7日に左大腿骨の一部、11月8日に両手足の無い胴体部分、11月9日に左足首、11月19日に爪が発見された。
犯行の状況

死亡推定時期は2009年10月26日 - 31日。
遺体状況から連れ去りに近い時間に死亡。
頭部に殴打された跡。
首を絞められた可能性が高い。
遺体損壊に鋭利な小型の刃物が使用。

犯行の特徴

手口の異常性・残虐性、損壊・遺棄の執拗さ・異様性。
遺留品など

被害者の血がつき、胴体に付着していたビニール片が遺留品となっている。捜査本部はNTTが電話帳の配達に使用するポリ袋の一部とみている。配達の年・地域によって色や文字・デザインが異なることがある。犯人の遺留品とみて、包装資材業者など流通ルートを調べた。その結果、インクの成分から1995年初めに広島県の5市(三次市安芸高田市東広島市呉市三原市)に配達されていたものであることが判明した。
被害者

被害者の女子大生は出身地の香川県の商業高校を卒業後、浜田市にある島根県立大学に進学。学業やサークル活動、アルバイトなどまじめで特定の異性交遊はなかった。また目立ったトラブルはなかった。

被害者は殺害の約半年前まで出身地の香川県坂出市に居住し、事件当時の両親も同地に在住していた。そのため、香川県は事件現場と隣接も近接もしていないが、香川県内のテレビ(同じ放送エリアである岡山県のテレビ局も含む)・新聞といったマスメディアは、全国ニュース以外のローカルパートでもこの事件を盛んに報道し、周辺住民や元教諭がインタビューに答えるなどした。また、被害者は前年度まで高松市香川県立高松商業高等学校英語実務科に在籍していたことから、同校では緊急の全校集会を開いて全員で黙とうを行い校長が生徒らに事件の説明したり、その後元担任が記者会見を開いて行方不明後の心配や当時の心境を語ったりするなど、事件は遠く離れた地元・香川県でも大きな衝撃を与え、異例の扱いとなっている。その影響は坂出市の実家周辺にも及び、加熱する報道に対して両親が遺族らへの取材自粛を求めるコメントを広島・島根両県警を通じて発表したほどであった。


◼︎王将社長射殺事件




2013年(平成25年)12月19日早朝、京都市山科区の王将本社前にて大東社長が自身で運転していた自動車付近に倒れているところを通報されて病院へ搬送されたが、死亡が確認された。死因は拳銃による銃殺だと見られている。

大東社長は午前5時半頃に自宅を出て車で10分の距離に存在する本社に通勤していたことから、警察は午前5時45分頃に現場付近で何者かに銃撃されたと見ている。

犯行に使われたのは小型の25口径の自動式拳銃であり、至近距離から撃たれたと考えられている。4発の銃弾が撃たれ、全てが急所に命中していた。

犯人は逃走にバイクを使用したとみられており、捜査本部などへの情報提供は300件を超えたが、未だに有力な情報は得られていなかった。

しかし、事件現場の近くで発見された遺留品から検出されたDNA型が、九州地方の暴力団組員のものと一致した為、警察は九州方面を集中捜査する方針である。

事件の発生した19日は、山科区内の小学校12校では集団下校が実施され、教師同伴の集団下校や保護者同伴による下校が実施された。京都市内や一部の市町村の学校でも怪しい人物に注意する旨の文面が配布された。

同年12月22日には大東社長の自宅で通夜が行われ、遺族や会社関係者などの約30人が集まり冥福を祈った。

大東社長は地域住民に対して友好的であり、親切で慕われていた。そのため多くの人から悲しみの声が聞かれた。

餃子の王将には「追悼餃子」として、多くの人々が哀悼の意を込めて各地の王将店舗を訪れ、餃子の王将の看板メニューである餃子を注文した。「追悼餃子」目的の来店増加によって、王将各店舗の来店数は約20万人に達した(2014年5月15日現在)。一時は株の大暴落も心配されたが、2014年3月期の売上高は「追悼餃子」の影響もあって過去最高の762億円を記録し、株の大暴落等の変化は見られなかった。


◼︎太田市高林東町地内パチンコ店における幼女略取誘拐容疑事件




1996年7月7日(日曜)、群馬県太田市の4歳女児がパチンコ店から行方不明となる事件が発生。
この事件は女児の行方が発見されていないため、失踪事件となっている。

一連の女児誘拐殺人事件でも2件はパチンコ店からの行方不明となっており、連れ去りの手口が類似していること、この事件の発生現場であるパチンコ店の防犯カメラ映像に映っていた男が、足利事件発生時に目撃された男と似ている点などから北関東連続幼女誘拐殺人事件と関連性が疑われている。
尚、当事件には被害者の発見または被疑者の検挙につながる情報に600万円の懸賞金(捜査特別報奨金300万円、地元の遊戯団体による謝礼金300万円)が用意されている。


◼︎名古屋妊婦切り裂き殺人事件



出典 www.gettyimages.com


1988年(昭和63年)3月18日、愛知県名古屋市中川区のアパートに会社員(当時31歳)の男性が帰宅。室内で、妻である臨月の妊婦(当時27歳)が殺され、赤ん坊が泣き叫んでいるのを発見した。

妻は両手を縛り上げられており、首に電気コードを巻かれ、絞殺されていた。死体は、薄い鋭利な刃物で、みぞおちから下腹部にかけて縦38センチにわたって切り裂かれていた。彼女の足元には、赤ん坊がへその緒をつけたまま泣き叫んでいた。犯人は妊婦を絞殺後、胎児を生きたまま取り出してへその緒を刃物で切断し、子宮にコードを切り離したプッシュホン式の電話の受話器と、キャラクター人形のついたキーホルダーを入れた後、妻の財布を奪って逃走した。

取り出された胎児は男の子で、太ももの裏、ひざの裏、睾丸の3箇所を刃物で切りつけられていたが、病院で約1時間の手術を受け一命を取り留めた。

なお、絞殺の凶器は別の物であり、首に電気コタツのコードが巻かれたのは死後とされている(コンセントが刺さっていた状態で発見された)。

有効な手がかりがないまま2003年(平成15年)3月18日に公訴時効が成立し、未解決事件となった。世間の好奇の目にさらされ続けた夫と子供は1999年(平成11年)に日本国外に移住している。


◼︎江東区亀戸漫画家女性殺人事件




2000年9月29日午後1時ごろ、国勢調査の調査員が東京都江東区亀戸6丁目にある、当時28歳の女性宅(マンション)を訪問したところ、鍵が開いていたが応答がなく、しかも異臭がすることから不審に思い管理人に通報したことにより事件が発覚。
女性はベッドの中で首を絞められて殺害されていた。Tシャツだけの姿で、顔に白い布がかかっていた。死亡推定日時は19日頃。

被害者の女性は同人誌で有名なアマチュア漫画家で、10年間一人暮らしであったが、マンションにはアシスタントや業者の出入があった。人気同人作家が大きな収入を得る事もあるという事が当時の世間には理解されず、同人活動の傍ら高級風俗店に勤務して生計を立てていたとも報じられたが、お金には困っていなかった。事件時、部屋には現金300万円があったが、手をつけられていなかったことから、物盗りではなく怨恨・人間関係のトラブルによる犯行とみられている。 現在、犯人の検挙には至っていない。

2004年にはテレビ朝日系「奇跡の扉 TVのチカラ」で超能力者が透視を行い、そこで作成された似顔絵を元に情報を呼びかけたところ似顔絵そっくりで透視と符合する人物がいると情報を寄せられて事件直後に失踪した男性が居たことがわかったが、所在は掴めていない。


◼︎京都精華大学生通り魔殺人事件




2007年1月15日午後7時50分頃、京都精華大学マンガ学部1年生の男性(当時20歳)が、学校から自転車で帰宅している途中に京都市左京区岩倉幡枝町の歩道で鉢合わせしたところで口論になったとみられ、20~30歳位の男に小型の刃物(幅約1〜2cm)で胸や腹など全身十数か所を刺され、死亡した。

直後に第一発見者の通行人が発見した時には被害者には意識があり、刺されたことを伝えて通報を頼んでいた。

午後7時52分、事件現場に到着した京都市消防局救急隊員によって病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。

第一発見者が事件現場を自転車で通過したとき、不審な男が畑に背を向け車道に座り込み、その後ろの畑に人が倒れているのを目撃。気になったので30秒後に現場に戻ると、男の姿は既になく、代わりに被害者が携帯電話を横に血を流し座り込んでいた。

現場は京都精華大学の南東およそ600メートル、叡山電鉄木野駅から南に約100メートルの閑静な住宅街で、容疑者の男は大学生に向かい大声で「アホ」「ボケ」を繰り返しながら暴言を吐き、興奮していた。

男が興奮していた理由は不明だが、当時被害者は自転車で歩道の右側を走っており、男は左側を走っていたところで鉢合わせになり、自転車の通行を巡って口論になったためとみられ、そこで激昂し殺害に至ったのではないかとみられている(現場である歩道の約1.5m下に畑があるが、畑の側にはガードレールが設置されていなかった。さらに街灯の少ない夜道のため、自転車ですれ違う際、畑に転落する危険もあった)。

被害者は明るい性格でクラスのリーダー的な存在で、知人らは「トラブルなどは聞いたこともない」と話している。また、直後に到着した下鴨警察署員には「犯人は面識のない人だった」と被害者は述べていた。

警察は現在、犯人とみられる男の情報を求めており捜査特別報奨金制度の対象となっている。


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