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【世界が震撼】当時6歳も.....幼すぎる殺人犯たち

世界が驚いた幼すぎる殺人犯。犯行時には6歳という小学校に通い始めた年齢の者まで。何が原因で、何故殺人を犯してしまったのでしょうか。


マリー・ベル事件


メアリー・ベル
当時11歳


3歳と4歳の男児を殺害した。初犯は10歳だった。
出典 メアリー・ベル事件 - Wikipedia


1968年5月25日、イングランド北部の都市、ニューカッスルでの出来事である。労働者階級の町スコッツウッドで、鳩小屋を作る材木を探していた3人の少年が、立ち退きになった空家の2階で幼児の死体を発見した。瓦礫で覆われた床に仰向けで横たわり、口からは血が流れていた。そばには空の薬瓶が転がっており、警察は当初、薬の誤飲が死因ではないかと考えた。目立った外傷は見当たらなかった。

 少年たちは慌てて助けを求めた。近くにいた電気工が、無駄とは思いながらも人工呼吸を施した。少年の1人、ウォルターは吐き気を覚え、窓から顔を出して深呼吸した。窓の下に2人の少女が歩いて来るのが見えた。メアリー・ベル(10)とノーマ・ベル(13)だ。姓は同じだが親類ではない。メアリーの方が云った。
「上にあがってみようか?」
 2人は隣の空家の窓から入って裏庭に出て、壊れた勝手口から現場の空家に入って来た。階段を上ってきたのでウォルターは制止した。
「今は入っちゃダメだ」
「大丈夫よ。おまわりさんだって私がここにいることを知っているんだから」
 メアリーはそう云って、なおも上がろうとしたので、ウォルターは追い出した。

 死んでいたのはマーティン・ブラウン(4)だった。母親のジューンが駆けつけた時には、彼女の姉リタ・フィンレーは既に現場にいた。メアリーたちに教えられたのである。

「私がマーティンを最後に見てからそれほど経たないうちに、誰かがドアを叩くので出てみると、例の2人がいました。メアリーとノーマです。『どうしたの?』と訊くと、メアリーが云いました。『おばさんちの子供が事故にあったよ』。その時はマーティンのことだとは思わず、うちの子のことだと思いました」(リタ・フィンレー)

 リタはメアリーたちの悪い冗談だと思った。ところが、外で近所の人が手招きしている。彼女は半信半疑で表に飛び出した。

「私が現場の裏庭でレンガにつまずくと、小さな子に起されました。メアリーでした。彼女はまた私のそばにいたんです。そして、こう云いました。『場所を教えてあげるわ』と」(リタ・フィンレー)


検視解剖によってもマーティンの死因を特定することはできなかった。脳に僅かな出血がある以外は問題がなかった。考えられる唯一の死因は窒息だが、首には圧痕がなかった。絞殺の線も否定された。
 マーティンはその日、午後3時15分頃に駄菓子屋で飴を買い、叔母リタの家にあがってパンを食べた。外に出たのは3時20分頃である。そして、3時30分には遺体となって見つかった。あっと云う間に死んでしまったのだ。調べれば調べるほど判らない。警察は頭を抱えた。

「マーティンが死んだ翌日、例の2人が家にやって来ました。そして、うちの子のジョーンを遊びに連れて行ってくれるというのです。4人も子供がいて、てんてこ舞いだった私は親切に思ったものです。ところが、メアリーは『マーティンがいなくなってさびしい?』とか『マーティンがいなくなって泣いたの?』とか、しつこく訊いてくるんです。しかも、ニタニタ笑いながら。私は我慢できなくなって『もう二度と来ないで!』と怒鳴りつけました。私にはどうしてあの子たちがそんなこと訊くのか理解できませんでした」(リタ・フィンレー)

 マーティンが謎の死を遂げた翌日の5月26日は、メアリー・ベルの11歳の誕生日だった。メアリーはノーマ・ベルの妹スーザン(11)を「お誕生日カードをくれなかった」となじった。そして、首を絞めようとした。悲鳴を聞いて駆けつけたスーザンの父親が、メアリーの手を払い除けた。以来、スーザンはメアリーと遊ばなくなった。

 その翌日の5月27日の朝、近所の保育園が何者かに荒らされていた。警察は散乱した教材の中から4枚の紙切れを発見した。それには子供のような筆跡で、なぐり書きがしてあった。

●第1の紙片
「わたしが ころした。
 だから また やってくる」

●第2の紙片
「くそったれ。
 わたしたちが ころした。
 きをつけろ。
 おまんことおかまより」

●第2の紙片
「くそったれ。
 わたしたちが ころした。
 きをつけろ。
 おまんことおかまより」

●第4の紙片
「おまえらは まぬけだ。
 なぜなら、
 わたしたちが ころしたのだ。
 マータン・ゴー・ブラウンを。
 きをつけろ。
 またころしがあるぞ。
 おまんことおいぼれたおかまより。
 ポリこうへ」

 この誤字だらけのなぐり書きを警察は悪質ないたずらだと考えた。


その日、メアリー・ベルは学校で日誌を書かされた。

「土曜日はわたしは家にいました。するとママが、ノーマをさそって丘の上まで行ってくればと言ったので、ノーマの家に行きました。私とノーマは丘にのぼり、マーガレット通りまで下ると、古い家のそばに人ごみが見えました。私はなにがおこったのか人にききました。そこには男の子がたおれて死んでいました」

 下には御丁寧にイラストが描かれていた。死体のそばには「錠剤」と書かれていた。これはマーティンのそばに落ちていた薬瓶を意味する。しかし、彼女はそれは見ていない筈だ。ウォルターに追い払われたのだから。

 2日後、メアリー・ベルはブラウン家のドアを叩いた。

「メアリーは『マーティンはいますか?』と訊ねました。『マーティンは死んだのよ』と答えると、あの子はあたりを見回して『死んだのは知ってるわ。あの子が棺に入っているところが見たいのよ』と云ってニヤニヤと笑いました。私はびっくりして口もきけませんでした」(ジューン・ブラウン)

 5月31日、保育園で新しく取り付けた警報装置が作動した。警察が駆けつけると、そこにはメアリーとノーマがいた。2人は取り調べを受けたが、前の不法侵入については否定した。

 それから1週間ほど経った頃、或る少年がこんな光景を目撃している。メアリーが、
「あたしはひとごろしだあ!」
 と叫びながらノーマに飛びかかり、その髪を掴んで顔を蹴りつけ、マーティンが殺された家を指差して、
「あたしがあの家でブラウンを殺したの!」
 少年はさすがに仰天したが、真剣には受け取らなかった。メアリー・ベルは嘘つきで有名だったからである。

事件から2ケ月が経った7月31日、今度は3歳のブライアン・ハウが行方不明になった。もう夕方だというのに帰って来ない。姉のパットが探していると、2人の少女が近づいて来た。云うまでもないだろう。例の2人である。メアリーが云った。
「ブライアンは、あそこのコンクリートブロックの間で遊んでいるかも知れないわ」
 ノーマは強く否定した。
「あの子はあそこには絶対行かないわ」
 そう云って、どこかに遊びに行ってしまった。パットもノーマと同意見だった。メアリーと2人でブライアンが行きそうなところを一通り探して回った。見つかったのは真夜中の午後11時10分。ブライアンはまさにコンクリートブロックの間で冷たくなっていた。

 遺体の上には草や紫色の花がばらまかれていた。口には血の混じった唾液の泡が付着し、首には圧痕があった。鼻にはひっかき傷があり、近くには壊れたハサミが落ちていた。一方の刃は折れ、もう一方は折れ曲がっていた。
 検視の結果、死因は「子供による絞殺」と断定された。大人ならば普通、必要以上の力を加える筈だが、本件ではほとんど力が加えられてないからだ。太ももや陰嚢から見つかった刺し傷も皮膚が裂ける程度の軽微なもので、このことも子供の犯行であることを裏づけていた。鼻のひっかき傷は強くつままれたために出来たものだ。つまり、ブライアンは子供にいびり殺されたのである。
 ドブソン警部は2ケ月前のマーティン・ブラウンの件を思い出した。彼もまた子供に絞め殺されたのではないだろうか? 力が弱いから圧痕が残らなかったのだ。

 警察はスコッツウッドの約1000軒の家庭を訪ね、3歳から15歳までの子供たち約1200人に質問用紙を配付した。子供たちの答には矛盾がいくつも見られたが、特に多かった者が2人いた。云うまでもないだろうが、例の2人である。
 メアリーとノーマは、2人とも昼食後はブライアンを見なかったと云っていたが、午後の行動については訊くたびにころころと変わった。しかも、2人の態度は他の子供たちとは明らかに異なっていた。殺人について訊いているというのに、終始ニヤニヤと笑っていたのである。

 8月2日、警察がメアリーを改めて尋問すると、彼女は思い出したことがあると云い出した。ブライアンが殺された日の午後、体中に草や紫の花をいっぱいつけた少年が「片方の刃が折れるか曲がるかしたハサミ」で遊んでいた。彼はそのハサミで猫の尻尾を切ろうとしていた。そして、理由もなくブライアンを叩き始めた…。
 現場に残されていたハサミについては一般に公表されていなかった。警察はメアリーの証言を重く見て、早速その少年を尋問したが、彼には確固たるアリバイがあった。そこでメアリーが捜査線上に浮上した。彼女はハサミの存在を知っていたのだ。


8月4日、警察はノーマを改めて尋問した。当初は事件への関与を否定していたノーマだったが、やがて「お父さんのいないところで話したい」と泣き出した。
「ブライアンが死んだ日、私はメアリーとあのコンクリートブロックのところに行きました。そして、何かにつまずきました。見下ろすと、それはブライアンの頭でした。彼は死んでいました。するとメアリーが『あたしが殺したの。誰にも云っちゃダメよ』と云いました」
「どうして死んでいるのが判ったのかね?」
「唇が紫色でした。メアリーは指で唇をなぞって『面白かった』って…」
「ブライアンのそばには何かあったかい?」
「いいえ。でも、メアリーがカミソリの刃を私に見せて、それでお腹を切ったと云いました。彼のシャツをまくりあげて、お腹の上の小さな切り傷を見せました。そして、彼女はカミソリの刃をブロックの下に隠しました」
 彼女の証言通り、ブロックの下からカミソリの刃が発見された。

 その直後、ドブソン警部はメアリーを連行した。既に午前0時を回っていたが、寝ているところを起こされたメアリーは実に落ち着いていた。まるで予期していたかのようだった。当然のことながら、ノーマの証言を完全否定した。そして、立ち上がってこう云った。
「弁護士に電話するわ。ここから出してもらうの。これは洗脳だわ」
 彼女は明らかにテレビの刑事ドラマから影響を受けていた。
 とにかく、何も知らないの一点張りだった。埒が明かないので、その日は家に送り返した。

 翌日、ノーマが証言を変えた。彼女はメアリーがブライアンの首を絞めるのを見ていたというのだ。そして、メアリーがどうやってブライアンの腹にカミソリの刃を当てたかを説明し、傷の場所を図で示した。ドブソン警部が遺体を確認すると、たしかにM字型の5つの傷が確認された。腐敗が始まるまで見えなかったということは、傷がつけられたのは死後と推測された。

 8月7日、ブライアン・ハウが埋葬された。ドブソン警部はその時の模様をこう語る。
「棺が運び出された時、メアリーはハウ家の正面に立っていました。私は彼女を観察していました。そして、もう一日も無駄にできないと思いました。あの子は笑っていました。手を叩かんばかりに笑っていたのです。彼女を早く捕まえなければ、また別の幼児が殺される。私はそう思いました」
 その日の午後4時30分、11歳の殺人者は逮捕された。

逮捕されたメアリーは供述を一転させた。殺人への関与は認めたが、すべてノーマがしたことだと云い出したのである。
「メアリーには感情というものがありませんでした」
 取り調べに付き添った看護婦は語る。
「彼女は、自分たちが犯した恐るべき事を詳細に語りました。その語彙は豊富で、とても子供とは思えません。頭のいい子でした。でも、何も感じていないのです」
 拘置所での監視役を務めた婦人警官も戸惑いを覚えた。
「拘置初日の夜、ベッドの中で突然、歌い出したんです。それも、とてもいい声で…。あんな幼い子が拘置所であんな歌を歌うなんて…」

 あ~あ おまえはよごれはててさ~
 ゴミばこのふたみたいだよ~
 おまえのしたこと とうちゃんがきいたら~
 ベルトでおまえをひっぱたくよ~


 メアリー・ベルとノーマ・ベルの裁判は1968年12月5日に始まった。終始落ち着きがなく、しばしば涙を流したノーマとは対照的に、メアリーは毅然としていた。専門的な証言にも耳を傾け、常に審理に集中していた。
 傍聴席にいた女性がメアリーに微笑みかけたことがある。しかし、彼女は微笑み返さなかった。
「だって、もし笑ったりしたら、陪審はいい印象を受けないと思うわ」
 これがメアリーの云い分だった。とても11歳とは思えない利発さである。しかし、何かが間違っている。

 間違っているといえば、彼女の母親も人として相当間違っていた。厚化粧の上にだらしないブロンドのかつらを被り、しばしば感情的に泣き叫び、何度も裁判を妨げた。「この親にしてこの子あり」と誰もが思ったことだろう。とにかく、母親の振る舞いはあまりにも痛かった。「ノーマ=無罪。メアリー=有罪」の心証が形成されて行った。
 象徴的なのは、裁判が開廷された時のことである。かつらを被った裁判官が入廷すると、ノーマは不安そうに両親の方を振り返ったが、メアリーはかつらに興味を示したのである。この時点で結論は見えていたといっていいだろう。

 判決は12月17日に下された。大方の予想の通り、ノーマには無罪、メアリーには2件の殺人で有罪が下された。メアリーの数々の言動から察するに、彼女に真に必要なのは精神的な治療だろう。しかし、メアリーを受け入れてくれる精神病院は見つからず、結局、通常の矯正施設に送られることとなった。


23歳になったメアリーベル


大嘘つきで感情を持たない少女、メアリー・ベル。看護婦になりたい理由を訊かれて「だって、人に注射針を刺せるもの」と答えたメアリー・ベル。いったいどうしてこのような怪物が生まれてしまったのだろうか? その正確な原因は判らないが、家庭に問題があったことはまず間違いない。

 まず、前述の通り、母親のベティが相当の変わり者である。17歳の時、未婚のままにメアリーを産んだ時、「早くそれを片付けてちょうだい」という、人とは思えない科白を吐いたと伝えられている。職業は売春婦で、メアリーに愛情を注いだ形跡はまるでない。それどころか、幼いメアリーは母親の常用するドラッグを口に入れ、何度も生死をさまよっている。

 血が繋がっていない父親のビリー・ベルは、要するにベティのヒモだった。窃盗の常習犯で、ベティの稼ぎと生活保護に頼って暮らしていた。メアリーはビリーのことを「叔父」と呼ぶように教育されていた。ベティと夫婦であることがバレると、生活保護が減らされてしまうからだ。
 初めてメアリーの家を訪問した刑事によれば、
「『家』という感じがまったくしない、まるで空家のような家でした。生きていると感じられたのは、大きな犬が吠えていることだけでした」

 矯正施設に入れられたメアリーは、1970年に職員の1人から性的虐待を受けたとして訴え出た。しかし、裁判官はメアリーのでっち上げだとして却下している。

 1977年9月、20歳になったメアリーは仲間のアネット・プリーストと共に脱走し、3日後に逮捕された。その間にメアリーは処女を捨てた。『リトル・ダーリング』という処女捨て競争の映画があったが、あれの脱獄版という感じもしなくはない。

 そして、その2年8ケ月後の1980年5月14日、メアリー・ベルは名前を変えて釈放された。驚くなかれ、この怪物は治療されぬままに娑婆に放たれたのだ。1998年には自らの事件を振り返った『魂の叫び』を出版し、再びセンセーションを巻き起こしたが、その内容については真実であるかどうかは判らない。なにしろ彼女は大嘘つきなのだから。


佐世保小6女児同級生殺害事件


NEVADAたん
当時11歳


2004年、長崎県佐世保市の市立大久保小学校で、6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで切り付けられて死亡した事件。
出典 佐世保小6女児同級生殺害事件 - Wikipedia


犯行を行った加害女児と被害者は、互いにコミュニティーサイトの提供するウェブサイトを運営し、パソコンでチャットや、掲示板に書き込みをする仲だった。犯行の動機について、加害女児はウェブサイト上の掲示板などに身体的特徴を中傷する内容を書かれたことを挙げている。しかし、加害女児をよく知る第三者は、客観的に言ってそのような身体的特徴があるなどとは全く感じられない、認められないと話している。

当日、加害女児は午前中の授業が終わった後、被害者を学習ルームに呼び出し、そこでカーテンを閉めて床に座らせ、手で目を隠し背後から首と左手を切りつけた。被害者の首の傷は深さ約10センチ(普通の大人の首の太さは直径で13 - 15cmぐらい)、長さ約10センチになり、左手の甲には、骨が見えるほど深い傷があったという。切りつけたあと、約15分間女児は現場にとどまり、被害女児を蹴り飛ばしたり、踏みつけたりして、生死を確認していた[2]。この時、彼女はパニック状態にあったと考えられている。

加害女児が前夜に見たテレビドラマ『ホステス探偵危機一髪6』にカッターナイフで人を殺害する場面があり、女児自身「これを参考に殺人を計画した」と後に供述したことから、その後、各テレビ局が殺人ドラマの放送を自粛する事態にもなった。また、加害女児が熱中していた映画『バトル・ロワイアル』に似た場面があることもあり、事件への影響も指摘されている。この影響で、DVD『バトル・ロワイアルII【特別編】REVENGE』の発売延期を余儀なくされた。[要出典]

また、被害者家族、学校関係者に心的外傷後ストレス障害PTSD)の、救急隊員に惨事ストレスやサバイバーズ・ギルトの兆候が見られる状態になった。

加害女児の家庭は、父親が病気で仕事ができなかった時期が長く、母親と祖母がパートに出ていた。父親は累積したストレスを発散するため、加害女児に虐待を加えることがたびたびあった。加害女児自身、親戚や同級生に対して父親が嫌いであるという発言をしていた。父親は加害女児に対して過干渉であり、加害女児の友達を激しく叱責したりすることもあった。日常生活でうまくいかなかった娘とのコミュニケーションを、トラブルの際過剰なまでに娘の味方をすることで補おうとしたと分析されている。

加害女児は、両親との関係、コミュニケーションが淡白であった。入院した際に、家族が面会に来たが、その時「情緒的な交流が一切なく、世間話をしているだけだった」と関係者が語っている。

加害女児は事件よりかなり以前から、ホラー小説『ボイス』と小説『バトル・ロワイアル』のファンだった。事件を起こす4カ月前には『バトル・ロワイヤル』の小説を同級生に貸し出しており、また大石圭の『呪怨』にも興味を示し、父親に買ってもらいたいという発言をしていた。やがて、それらのホラー小説などの影響は、加害女児の現実における行動にも現れるようになっていった。

被害女児とは仲が良く、ウェブサイトや他の子を交えた交換日記での付き合いもあった。[要出典]

加害女児はおとなしい普通の女子児童であったが、5年生の終わり頃から精神的に不安定になっていったと周囲の人々は語っている[9]。人と話すときに人の目を見なくなり、目を泳がせて落ち着かない素振りを見せることがしばしばあり、また些細なことで逆上し、罵詈雑言を吐いたり、カッターナイフを振り上げるようなこともあった。また同級生に対して、他の児童とともに集団いじめを行ったりすることもあった。6年に入ってから暴力的な言行が増えていったという加害女児だが、担当の教師からの評判は「遅刻も少なく、授業中も率先して手をあげて質問する積極的な生徒」というものであった。この時期の1月にウェブサイトを開き、『バトル・ロワイヤル』の同人小説を発表している。学校で将来志望を小説家か漫画家と書いたことがあるという彼女は続編を予定していて、それは6年生のクラスと同じ人数の38人が殺し合いをするストーリーで、各キャラクターモデルや名が同級生に似ているといい、被害女児と同姓の登場人物も描かれており、物語の中で殺害されているという。


5月下旬頃、遊びで被害女児が加害女児をおんぶしたとき、加害女児に「重い」と言い、加害女児は腹を立て「失礼しちゃうわ」と言った。その後、被害女児は自分のウェブサイトに「言い方がぶりっ子だ」と書いた。それを見た加害女児は、何らかの方法で入手した被害女児のパスワードを使ってその記述を削除した。しかしその後、再び同様の書き込みをされ、加害女児は被害女児に殺意を抱いた。被害女児は自分の掲示板が不正に書き換えられたことについて「荒らしにアッタンダ。マァ大体ダレがやってるかワかるケド」と書いた。それを受けて加害女児は、被害女児のネット上のアバターを消去した。

ほかにも、被害女児を含めた同級生達と手書きの合作ノートを作っていたが、ここでも同時期に他の子とトラブルがあり、事件のわずか前に被害女児を通じて退会を求められていたという。[要出典]

この頃、当時11歳だった加害女児は、姉のレンタルカードを使ってR15指定の映画『バトル・ロワイアル』をレンタルショップから借り、何度も視聴していた。事件の1週間前、同級生の男子が怒った加害女児にカッターナイフを振りかざしながら追いかけられたことがある。また、加害女児は普段からグル〜ミ〜という血まみれのクマのキャラクターが描かれたTシャツを着用しており、そのキャラクターの画像をネットに投稿するなどしていたという。

彼女は犯行後、被害者が生き返ってきたら謝りたい、と発言している。

加害女児は事件後、収容先の自立支援施設でアスペルガー症候群と診断されている。


ジェームス・バルガー事件


ジョン・ヴェナブレス、ロバート・トンプソン
当時10歳の少年たち


1993年2月12日、イギリスのリバプールで2歳児が10歳の少年2人に殺害された。
出典 ジェームス・バルガー事件 - Wikipedia


1993年2月12日、ジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンの2人は学校を無断欠席した。その日2人はストランド・ショッピングセンターを訪れ、食肉店の外で母親を待っていた被害者を誘いショッピングセンターの外に連れ出した。母親が買い物も終わって店の外に出た時には、被害者は既に連れ去られており、母親はすぐさま警備員に相談した。

その日被害者は近郊の都市カークビー (Kirkby) から母親と共に買い物にストランド・ショッピングセンターを訪れていた。バルガー夫人は息子に店の外で立って待っているように言った。母親が買い物をしている数分間にジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンの2人は被害者の手を引いてショッピングセンターの外に連れ出した。その様子は警備カメラに15時39分に記録されていた。

ジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンの2人は被害者を連れて2マイル半(約4km)歩いた。2人は人気(ひとけ)のない水路で被害者の頭部と顔面に激しい暴行を加え、頭を地面に叩きつけた。後に名乗り出た目撃者は、1人の少年が幼児の胸部を蹴っていたと証言した。

被害者を連れて2人が歩いている所は合計38人に目撃され、その内の何人かは被害者が負傷している事に気づいていた。だがその他の目撃者は被害者が少年らと嬉しそうに歩き、時折笑っていたと証言し、少年2人が後に被害者に暴力をふるうとは思わなかったと述べている。目撃者のうち何人かは2人に声を掛けたが、2人はこれから怪我をした弟を警察に連れて行くところだと言った。最終的に2人は瀕死の被害者をマージーサイド州ウォルトンの線路上に放置した。

被害者の口には乾電池が詰め込まれ、顔には青いペンキが塗られた。更に加害少年2人は重さ22ポンド(約10kg)の鉄の棒で殴る蹴るの暴行を加えた。遺体を線路に直角に横たわるように放置したのは、事故死と偽装するためだった。これらのことは後の裁判で明らかになった。

警察の調べで、加害少年は2人とも、被害者の顔面に塗られたものと同じ青ペンキが服に付着しており、靴にも血痕が付着していたことが判明した。その血痕をDNA鑑定したところ、それは明らかに被害者の血液だった。

失踪から2日後の日曜日、遺体が発見されたが、その上を列車が知らずに通過したため、発見された時点では上半身と下半身が轢断された状態になっていた。

この事件を教訓として公共の場に警備カメラの設置が相次いでいる。


裁判所は加害少年2人は長い間、世間から隔離されなければならないと判断し、非常に短期間で裁判は結審した。タイラー卿ガスフォース裁判長は、2人は最低でも10年は刑務所に収監されなければならないとの裁きを下したが、それは2003年までに釈放されることを意味していた。この裁きに対して一部マスコミが猛反発し、大衆紙ザ・サンは加害少年2人を終身刑にするよう求める署名30万人分をマイケル・ハワード法務大臣に届けた。

1995年、加害少年2人は刑期を最低でも15年に延ばされ、それは2008年、彼らが26歳になるまで釈放されないことを意味した。しかしながら1997年、高等法院はマイケル・ハワード法相の決定を違憲と判断し、彼が変更した刑期は却下され、加害少年2人は18歳になった時点で釈放されることになった。

ジョン・ヴェナブレスとロバート・トンプソンは少年院内での態度の良さが認められ、新しい身分が与えられて2001年に釈放された。釈放の際、イギリス全土で抗議運動が起こったが、裁判所は2人にこの先一生リバプール周辺には絶対に立ち入らない、週に1回保護監察官の面接を受ける義務を課し、マスコミに対しては2人についての報道を行わないように緘口令を敷いた。

被害者の母親に対しては政府から7,500ポンドの見舞金が支払われたが、後に夫妻は破局し、事件後すぐに離婚した。今ではそれぞれ別の配偶者と再婚している。

2006年6月、「サンデイ・ミラー」紙はロバート・トンプソンが過去を隠してガールフレンドと結婚したと報じた。同紙によるとロバート・トンプソンは釈放後に何度もヘロインを使用し、万引きで何度も逮捕されたが、今はホワイトカラーの勤労者としてオフィスで勤務しているという。

2010年、ジョン・ヴェナブレスは児童ポルノ規正法違反で逮捕された。ジャック・ストロー英司法相(当時)は「時期尚早な情報公開は刑事司法制度の整合性を損ないかねない」と逮捕された事件の詳細を明らかにしていない。


11歳少年が8歳を射殺


被害者の女児


近所に住む8歳の少女と子犬をめぐるけんかになった11歳の少年が、この少女を銃で殺害。
出典 米11歳少年、8歳少女を射殺 子犬めぐるけんかで 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News


米南部テネシー(Tennessee)州ジェファーソン(Jefferson)郡で先週末、近所に住む8歳の少女と子犬をめぐるけんかになった11歳の少年が、この少女を銃で撃ち死亡させる事件があった。少女の母親が明らかにした。

 母親のラターシャ・ダイヤー(Latasha Dyer)さんによると、娘のマッケイラ(McKayla Dyer)ちゃんは屋外で子犬と遊んでいたところ、少年に見せてと頼まれ、「いや」と断った直後に胸を撃たれた。

 ジェファーソン郡の保安官によると、少年は3日午後7時半ごろ、自宅内から父親の単発の12口径散弾銃で少女を撃った。少年は第1級殺人罪で訴追され、少年拘置所に勾留されているという。

 地元テレビWATE 6のウェブサイトに4日に掲載された映像でダイヤーさんは「私たちが引っ越してきた時から、少年はマッケイラをいじめていた」と語った。

「彼は娘をからかったり、悪口を言ったり、意地悪をしていた。校長に直訴して、しばらくは(いじめは)止まったと思ったら、昨日突然、娘を撃った」

 自宅の玄関でインタビューに応じたダイヤーさんは、感情を抑えきれない様子で「少年には教訓を学んでほしい。私の娘の命を奪ったのだから、彼女を取り戻せないのだから」と訴えた。


カール・ニュートン・マハン事件


カール・ニュートン・マハン
当時6歳


6歳だったカール・ニュートン・マハンは2歳年上の友達をバンッと撃ち殺し殺害。
出典 なぜ殺した!?10歳以下の子どもたちによる4つの凶悪殺人事件 | お金の学校


1929年に、ケンタッキー州の谷間にある小さな町で起きたショッキングな事件です。

当時、6歳だったカール・ニュートン・マハン(Carl Newton Mahan)は貧乏な家庭に生まれた少年でした。苦しい家族の生活を助けようと、友人のセシル(8歳)と一緒に鉄くずを拾ってかき集めては、ポンコツ屋に渡しわずかな小銭をせっせと稼いでいました。

ある時、カールは鉄くずのかたまりを見つけます。「いつもよりはましなお金を貰える!」と少年は喜びますが、横にいたセシルにふいうちで顔を殴られ、その鉄くずを奪い去られます。

怒りに震えたカールは急いで家に戻り、父親の銃を手に取り、セシルの元へ向かいます(※親戚の家に行き親戚の銃を持ち去った、という説もあり)。

「お前を撃ち殺してやる!」セシルに銃を向けたカールはそう大声で叫びます。そして実際に引き金を引き、2歳年上の友達をバンッと撃ち殺します。

法廷に立ったカールは「セシルを殺害する目的で銃を取りに帰り、友達を殺した」と証言します。

偶然による発砲事故でもなければ、その瞬間の怒りにかられて銃を撃ってしまったのでもありません。予め「あいつを殺してやる!」と決めて、それを実行した・・・裁判官たちはこのことに驚愕します。

約85年前の事件ですが、「たった6歳の少年が殺人を犯した」というニュースは当時全米を驚かせ、ゾッとさせました。

カール少年をどのように裁けばいいのか、陪審員たちが悩んでいる様子

カールの判決をどうるすか・・・陪審員たちは混乱しました。なぜなら事件そのものは残忍非道といえますが、カールはわずか6歳の少年なのです。

・殺人や死の意味をちゃんと理解していない幼い少年の被告をどうすればいいのか
・責任はこの子にあるのか、それとも保護者にあるとみなすべきなのか
・6歳の少年に有罪判決を言い渡せるものなのかどうか

当時は未成年の殺人事件に関する法律が正式に定められていなかった為、この件は非常に難しいものとなりました。

とはいえ、審議が始まったわずか30分後(!)に過失致死罪としてカールを少年院(15年間)送りにすることを陪審員たちは言い渡します。

しかし、その後上から「陪審員たちに6歳の子どもが裁かれるのは法的に違法とみなされるである」と異例の命令が出ました。

カールは少年院行きを見送られ、自宅に送り返されます。この時、両親は500ドル(約6万円)の保釈金を支払っています。

貧しく、その日暮らしだったはずの両親が、当時大金であった500ドルをどのように集めたのかという記録は残っていないようです。しかしかなり無理をして必死にこれだけの大金をかき集めたのに違いありません。

息子は家計を助けるために、鉄くず拾いをしており、それがきっかけで人殺しをしました。今度はその息子を助けるために、両親が無理をしてまで保釈金を用意することになったのです。なんて皮肉なことなのでしょうか・・・。

検事はこの判決の1か月後には「この事件はすべて完了した」と発表します。

少年の更生に関する公的な支援等は一切なかったといいます。カールがその後、どのような人生を歩んだのかは分かっていませんが、1958年に亡くなります。35歳でした。死因についてもはっきりした記録は残っていないようです。


Dedric Darnell Owens事件


Dedric Darnell Owens
当時6歳


「嫌いだから」同級生を殺害
出典 なぜ殺した!?10歳以下の子どもたちによる4つの凶悪殺人事件 | お金の学校


Kayla RalandがクラスメイトのDedric Darnell Owensに銃殺された、というミシガン州で起きた事件がニュースで流れた時、アメリカ中の人々が耳を疑ったものです。なぜなら被害者のKaylaも加害者のDedricもたったの6歳だったからです。

とある日、Dedricは銃とナイフを所有して登校。級友がナイフだけ見てしまいます。すぐに担任の先生にそのことを言いつけ、そのナイフは没収されます。この時、「他に危険物は所有していないか」と身体検査をされることはありませんでした。

1つの授業が終わり、次の授業が始まる時でした。みんなはガヤガヤしながら、移動していました(アメリカの小学校では、授業ごとに生徒たちが教室移動をすることがよくあります)。

Kayla がDedricの側を通りかかります。「僕はお前が好きじゃない」いきなり彼は少女にそう言います。

Kaylaは一瞬立ち止まります。そしてくるりと少年の方を向いて、抑揚のない声で「だから何よ?」と答えました。

その直後、22人のクラスメイトと教師が同教室にいる中で、DedricがKaylaに向けて銃の引き金を引いたのです。この銃声を耳にした3年生の生徒(9歳)は、

「銃声が聞こえた時、机か何か大きな物が落ちた音だと思ったんだ。だけどすぐに校長先生が警報器を鳴らして、先生たちにすべての教室のドアに鍵をかけて、みんなを教室の外に出さないように校内放送で指示を出したんだ。

なんだか恐ろしいことが起きたんだと分かって、僕はとても恐ろしくなったんだよ」
と話したのことです。

Kaylaが血まみれで床上に倒れた後、Dedric は涼しい顔をしたまま教室を出ます。そして一番近いお手洗いに向い、そこのトイレのごみ箱に銃を放り投げ捨てます。

その後、すぐにその場で教師の1人に取り押さえられます。少年は一切反抗することもなく、されるがままにそのまま校長室に導かれます。そこでやって来た警察により連行されました。

学校はただちに閉鎖され、全校生徒は避難させられます。撃たれた少女は病院に運ばれますが、重要な臓器に銃弾をぶち込まれていたため、間もなく息をひきとります。

ところで、Dedricは弟と共に伯父の家に住んでいました。父親はコカインの運び屋をやっていたのですが、警察に捕まり刑務所に入っていました。母親は行方をくらましています。

2年前の8歳の時までは、Dedricは実の両親と共に暮らしていました。近所の人は、

「あの子の両親はどうしようもない連中よ。毎日朝から庭先でお酒を飲み酔っぱらってマリファナを吸っていた。それだけじゃなく、大声で互いに罵り合い取っ組み合いをしていた。息子たちの世話なんかしていなかったわね」証言しています。


伯父の家に引き取られてからも、Dedricたちの生活環境が向上したわけではありませんでした。

事件直後、Dedricの伯父の家に捜査が入ったのですが、そこでは密輸目的の大量のコカインや銃が大量に発見されました。また「ブツ」を外から見られないように、家中の窓はブルーシートで覆われており、どの部屋も殺伐しゴミ箱のような空間でした。

さらにDedricたちのための部屋も机もベッドすらもありませんでした。2人は兄弟でシングルソファーをベッドとしてシェアして、きゅうくつな思いで眠っていたのです。無論、小学生の彼らのためのおもちゃも本もスポーツ道具もありません。

温かみや快適さからほど遠い、地獄のような家でした。そして彼らが日頃から伯父たちに暴力を振るわれていたことも分かりました。

そもそもこのあたりの地域は非常に貧しく、多くの住人は生活保護を受けて暮らしていました。

例外は 被害者のKaylaの家族です。少女の母親は自動車製造工場で働くため、毎朝早起きをして家を出ていました。義父がKaylaと彼女の兄妹たちを学校に送り届けていました。近所の中では一番「まともな」健全な家族でした。

Kaylaは普通の少女と違っていました。バービー人形で遊ぶことには感心がなく、自分を着飾ることにも興味がなく、読み書きが大好で非常に勉強熱心でした。周りの子どもの多くはどこかやる気のない感じだったものですが、珍しくKaylaだけは利発な少女でした。

Dedricはそんな少女を眩しく見ていました。可愛くて明るくて賢くてしっかりしている女の子・・・同じ年齢の少年が憧れと尊敬に似た気持ちを抱くのも、もっともです。

この感情をKayla本人に伝えたかったDedricは、事件を起こす数週間前に、少女に突然キスをしようとしています。無論、思いっきり拒絶をされました。

どうもこの件をきっかけに、愛情から憎悪に気持ちが変わり、それが殺意へとなってしまったようでした。

DedricがKaylaを撃った銃は、彼の伯父が所有していたものでした。裁判で出された判決により、 Dedricの伯父が2年半の間刑務所に入ることになりました。すべての責任は6歳の少年の保護者であり、その銃を管理していた大人が問われることになったのです。

Dedricはわずか6歳ということで殺人の罪で起訴されることはありませんでした。アメリカの大半の州では、6歳は犯罪の罪に問われる法律がありません。

1893年に定められた法律では、米国最高裁判所は7歳未満の子供は重罪の有罪、または任意の死罪のために処罰することができないとされました。その年齢内の子は決定的に罪を犯すことができないと推定されます。この考えに多くの州が従っているのです。

この事件で大きく話題に上がったのは、

「少年は以前から様々なサインを出していた。Dedricの伯父がどうしようもない男だというのは、その地域の人はみんな知ってた。少年が怒りっぽく、いつだって他の男の子たちに喧嘩をふっかけてもめ事ばかり起していることも分かっていた。

少年は苦しんで、もがいて、救いを求めていた。なのになぜ誰も気が付かなかったんだ。この事件は、少年の怒りが爆発したことにより起きた悲劇だ」

ということでした。

この事件は確かにDedric Darnell OwensがKayla Rollandを銃殺したものです。しかし、本当にKayla Rollandを殺したのは誰なのでしょうか?

Dedric Darnell OwensによるKayla Rolland銃殺事件は、アメリカの学校の校内で起きた、最年少の加害者と被害者の犯罪事件として有名になりました。

またマイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』(原題: Bowling for Columbine)(2002年)でも紹介されました。

ちなみに、犯行現場になった小学校はその後閉校になりました。

ネット上ではアメリカ人たちの意見は「少年の育った環境を考慮してあげるべきだ」。「振られた、嫌いだっていう理由で殺すのは間違っている」の2つに分かれています。


Amarjeet Sada事件


Amarjeet Sada
当時8歳


2007年にインドのビハール州のベグサライにある村で生後6か月の赤ん坊が大きな石で頭を強く打ち殺害された事件。
出典 なぜ殺した!?10歳以下の子どもたちによる4つの凶悪殺人事件 | お金の学校


2007年にインドのビハール州のベグサライにある村で起きた事件です。生後6か月の赤ん坊が大きな石で頭を強く打たれて死亡したのです。犯人はAmarjeet Sada(’Amardeep Sadaと英語表記される場合もあり)、1998年生まれで事件当時は8歳でした。

Amarjeetの父親は肉体労働者。とても貧しい一家でした。そもそもビハール州自体が、インドの中でワーストの貧困地域です。

この州では、平均年収は日本円にして約6万円といわれていますが、事件の舞台となったBegusaray村の人々はこの金額よりさらに下回る所得であるのは間違いありません。識字率もとても低い地域です。

Begusaray村の人々は質素慎ましやかな、伝統的で保守的な生活を送りながら、互いの繋がりも強く、常にどこかで誰かが見ているという環境でした。にもかかわらず、このような事件が起きてしまったのです。

とある母親が眠っている赤ん坊をカゴに入れて、村の小学校にすこしの間だけ預けた時です。

日本では、ちょっと買い物する間だけ飼い犬を店の前に繋いでおく、ということがよくありますが、この村ではちょっと用事を済ませる間だけ赤ん坊や幼子を学校に預けておく、ということがごく普通でした。

Amarjeetがなぜこの日にこの赤ん坊を狙ったのか動機は不明ですが、女性の姿が見えなくなるとものすごい勢いで、カゴごと赤ん坊を連れ去ります。

その後、この赤ん坊が殺されて土に埋められているのが発覚します。この事件の噂が広まると村人たちは「Amarjeet坊やの仕業じゃないだろうか」とひそひそ囁き合いました。

というのもその1年前に、Amarjeetが自分の実の妹(生後8か月)と従兄弟(生後9か月)を、やはり同じように石で赤ん坊たちの頭を死ぬまで打ち続けて殺害し、2人の遺体を埋めた、ということがすでに知れ渡っていたからです。

少年の両親や親戚もこのことは知っていました。しかし「あくまでも身内の中で起きた事故(事件)」として伏せて、警察に届け出を出すことはしませんでした。一家の名誉を最優先したのです。

しかしさすがに身内以外の赤ん坊まで殺したとあれば、村人も黙っていません。通報により警察署に連れて行かれたAmarjeetは「そうだよ、小学校で見つけた赤ん坊を殺したよ。草むらの上に赤ん坊を置いて、顔を石でガンガン殴ったんだ」とあっさり白状しました。

さらに「うん、前にも2人の赤ん坊(妹と従兄弟)も殺したよ」と声を震わせることもなくすらすらと話しました。その様子はむしろ非常に得意げで鼻高々であった、と言います。

たった8歳の少年が3人もの赤ん坊を殺し、しかもそれらの遺体を隠そうとまでした上、犯行がばれると誇らしげにそのことを語る・・・この事件は世間を唖然とさせました。

地元の警察は、「Amarjeetは口数が少ないがよく笑う。本当によく笑顔を見せる。そしてビスケットが欲しい、と何度もねだってくる」と少年の様子を報道一陣に伝えました。

少年は専門の精神鑑定医にまわされます。診断結果は素行障害(Conduct Disorder)でした。素行障害というのは幼児期から青年期の間に、異常な反社会的行動を示すものです。脳の障害も疑われました。

ところでインドの法律では、子どもは殺人を犯しても、死刑にも3年以上の刑務所送りにもなりません。その代わり18歳になるまで児童更生施設(children home)に入っていなくてはなりません。

国の法律でそうなっているが故に、Amarjeet は刑務所ではなく児童更生施設(children home)行きとなりました。

少年は2015年の時点で17歳になっています。彼は‘Samarjit’という名前に変えたといいます。何か犯罪を起こした未成年が名前を変えることは、インドではよくあることだそうです。

施設を出るのは来年の予定です。それまでは施設でセラピーを受け続けるといいますが、それがどのような成果を出しているのか発表はされていません。

18歳になり、晴れて自由の身になった後、彼はどうするつもりなのか、それもまったく分かっていません。両親のコメントも村人たちのコメントも一切マスコミには出ていません。

閉塞された空間の村であるため、村内で起きたことを外の世界に口外はしない、という無言の強い決まりがあるようです。

この8歳児による3人の赤ん坊殺しは、インドで起きた、最も若い年齢の犯人による殺人事件として有名になり、未だに語り継がれています。

ネット上では、圧倒的に「脳に異常があったんじゃないか」の意見が目立ちます。そして「だからといって許さない」という厳しい声がたくさん見られます。