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【快楽殺人】日本のシリアルキラー・連続殺人犯たち

殺害することに快楽を覚えるシリアルキラー。日本で大量殺人を犯した比較的有名な殺人犯たちを画像つきでまとめました。


大久保清
日本 群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市


1971年に画家を装い、8名を殺害
出典 大久保清 - Wikipedia


殺害方法
出典 大久保清 - Wikipedia
3月31日に群馬県多野郡で最初の殺人を犯したのを手始めに、逮捕されるまでの1か月半の間、ベレー帽を被ってルパシカを着てスポーツカーに乗りながら、画家を自称し「絵のモデルになってくれませんか?」と約1000人以上の女性に声を掛けていた。ロシアの血を引く甘いマスクと巧みな話術・物腰柔らかな態度から、150人ほどの女性が車に乗り込みうち10数人と肉体関係を持った。しかし、声を掛け行動をともにした女性のうち8名を容赦なく殺害、死体を造成地等に埋めて遺棄した。
被害届けを出さなかった女性も数知れず、その被害実態はいまだに明らかでない。


生い立ち
出典 大久保清 - Wikipedia
大久保は群馬県碓氷郡八幡村(現高崎市)に8人兄弟の三男として生まれた。大久保はロシア人の血を引く母親に溺愛され、成人してからも「ボクちゃん」と呼ばれ子ども扱いされていた。その一方で、すぐ上の兄とは仲が悪く、後々まで尾を引くことになった。学校での成績はあまり良くなく、1946年に小学校6年生だった大久保は、幼女を麦畑に連れ込んで性器に石を詰め込む強制わいせつ行為をする。
中学時代から闇屋を手伝い、一時は定時制高校に通うも除籍。東京都板橋区電器店に住み込みで勤めるが、1952年4月に銭湯の女風呂を覗き、現行犯逮捕されて店を解雇。これが大久保の最初の犯歴となった。


死刑執行
出典 大久保清 - Wikipedia
1976年1月22日に東京拘置所で大久保の死刑が執行された。死刑執行に対し恐れおののく姿が関連の書籍によって克明に紹介された。執行前からマスコミが拘置所に押しかけ、窓際にたたずむ大久保清をカメラで撮影したり、死刑執行情報をキャッチしたりして、茶の間にいち早く大久保の状況を報道していた。


小平義雄
東京


1945年から1946年にかけて7名が殺害された事件。
出典 小平事件 - Wikipedia


殺害方法
出典 小平事件 - Wikipedia
勤務していた海軍衣糧廠で女子寮に侵入して21歳女子隊員を強姦して殺害。同年6月、東武新栃木駅で31歳女性を農家を案内すると山林に誘い出し、3度強姦したのちに絞殺。など7名を殺害。


生い立ち
出典 小平事件 - Wikipedia
子供の頃から吃音症であった。1923年に横須賀海兵団に入団、海軍軍人となったが、戦地として赴いた中国(山東出兵)においても婦女暴行や妊婦の殺害などを行っていたという。
1924年海軍三等機関兵曹として退役。その後小平は結婚したが、浮気相手である女性に子供を産ませていた。1932年、それを知った妻が小平から離れて実家に戻ったところ、逆上した小平は妻の実家を襲撃、鉄棒で義父を殺害し、6人を負傷させた。この殺傷事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けたが、二度の恩赦によって1940年に仮出所した。


死刑執行
出典 小平事件 - Wikipedia
1949年(昭和24年)10月5日に死刑執行。当日、教誨師に対し「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った。そして、「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください」とする遺書と「亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日を最後に深く果てなん」という辞世の句を残した。


宮崎勤
東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市


1989年までに4名の女児を誘拐、殺害した事件。
出典 宮崎勤 - Wikipedia


殺害方法
出典 東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 - Wikipedia
1988年8月22日当時4歳の女児Aが誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。
1989年6月6日当時5歳の女児Dが誘拐・殺害される。Dの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。など4名を殺害。


生い立ち
出典 宮崎勤 - Wikipedia
地元の新聞会社を経営する、裕福な一家の長男として出生。
両親は共働きで忙しかったため、産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話のほとんどは、この男性と祖父が行っていた。
宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を務めており、地元の名士であった。
幼い頃から「両側先天性橈尺骨癒合症」という、当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があった。


死刑執行
出典 宮崎勤 - Wikipedia
2008年6月17日午前に東京拘置所で宮崎の死刑は執行された[48]。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中という状況だった。(過去10年間における)死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4ヶ月というスピード執行となる。


永山則夫
東京


1968年、東京都区部京都市函館市名古屋市において4名が殺害された事件。
出典 永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia


殺害方法
出典 永山則夫連続射殺事件 - Wikipedia
横須賀のアメリカ海軍基地から盗んだ拳銃により、社会への復讐のために短期間のうちに4人を射殺した。
東京の東京プリンスホテル綜合警備保障(現:ALSOK)に勤務する27歳のガードマンに対し2発撃って射殺した。
京都の八坂神社境内で69歳の守衛員に対し6発撃って射殺した。
函館で31歳のタクシー運転手に対し2発撃って射殺した。
名古屋で22歳のタクシー運転手に対し4発撃って射殺した。


生い立ち
出典 永山則夫 - Wikipedia
北海道網走市に、8人兄弟の7番目の子として生まれる。
3歳のとき、一家で郊外の呼人から市内中心部に引っ越す。父親は腕のよいリンゴの枝の剪定師だったが、家庭は崩壊状態。現在で言うところのネグレクトの犠牲者であった。

1954年、母親が青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう。
兄弟全ての汽車賃が出せないため、則夫を含む4人を網走に残したままの家出だった。
残された則夫を含む4人兄弟は、漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったりして極貧の生計を立てていたものの、年少の則夫は始終兄や姉たちから虐待を受けていた。


死刑執行
出典 永山則夫 - Wikipedia
1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行された。48歳だった。全国新聞はいずれも当日の夕刊の第一面で報じた。
生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていた。実際に処刑の際、永山が激しく抵抗したとする数人の証言がある。このため、永山の死体は死刑執行後、速やかに火葬されたと言われている。最期の言葉は「俺を殺したら革命が起きるぞ!!」だったという。


前上博
大阪府


自殺サイトを利用し、3名の男女を殺害。
出典 自殺サイト殺人事件 - Wikipedia


殺害方法
出典 自殺サイト連続殺人事件
M子さんとはある自殺サイトで知り合い、2004年から20回近くメールのやりとりをしていたのだという。そして「練炭で自殺しよう」とM子さんを誘い、合流。
レンタカーのライトバンの後部座席でM子さんの手足を縛ったうえで、シンナーを嗅がせたり、鼻と口を手で押さえて数回にわたって苦しませた末、殺害するなど3名。
「男でも女でも、口をふさいで苦しむ姿に性的興奮を覚えた。苦しむ顔が見たかった。自分は自殺するつもりはなかった」
自宅からは、女性を縛った上で口や鼻を圧迫して窒息させる映像が映った市販のわいせつビデオが多数押収された。


生い立ち
出典 自殺サイト殺人事件 - Wikipedia
前上には白色スクールソックスに興奮するという、もう一つの性癖があることが明らかにされた。この性癖のきっかけとなったのは、中学生時代に教育実習の女子大生を窒息させるという妄想にふけりながら自慰行為を繰り返す過程で、彼女が着用していた白色スクールソックスも性的興奮の対象となったためとされている。その性癖のために、前上は、大学生時代に、白色スクールソックスを着用した男性の友人を見て欲求を抑えられなくなり、襲って首を絞めたことが明らかになり大学を1年2ヶ月で中退している。
本件においては、犯行の際に全ての被害者に白色スクールソックスを履かせて興奮を高めていた。


死刑執行
出典 自殺サイト殺人事件 - Wikipedia
2009年7月28日、森英介法務大臣の執行命令書捺印により、死刑が執行された。死刑確定から異例の早さでの執行であった。同日には大阪姉妹殺害事件の死刑囚他1名の死刑も執行されている。


酒鬼薔薇聖斗
兵庫県


当時14歳の中学生が2名を殺害、3名が重軽傷を負わせた。
出典 神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia


殺害方法
出典 神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia
付近にいた小学4年生の女児に手を洗える場所はないかとたずね、学校に案内させた後、「お礼を言いたいのでこっちを向いて下さい」といい、振り返った女児を八角げんのうで殴りつけ逃走した。女児は病院に運ばれたが、3月23日に脳挫傷で死亡した。
また、通称「タンク山」と呼ばれている近所の高台の付近に住む小学5年生の男児を誘い出し、殺害。


生い立ち
出典 神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia
少年が在籍していた友が丘中学校の当時の校長は、少年には問題行動、正確にいえば、風変わりな行動が多かったと証言している。
他の生徒の靴を隠して燃やす、ラケットで何もしていない生徒の頭を叩く、カッターナイフで他の生徒の自転車のタイヤを切るといった行為があったといわれ、少年が在籍していた小学校からは「刃物を一杯突き刺した不気味な粘土細工を制作していた」という報告を受けたという。


少年院送致
出典 神戸連続児童殺傷事件 - Wikipedia
1997年、神戸家庭裁判所は少年を医療少年院送致が相当と判断、関東医療少年院に移される。
2005年、1月1日少年の本退院が認可される。


角田美代子
兵庫県


1987年頃に発生した女性失踪事件を発端に、10名以上の死亡者・行方不明者が出ている。
出典 尼崎事件 - Wikipedia


殺害方法
出典 尼崎事件 - Wikipedia
この事件の主犯格とされる角田美代子は、少なくとも25年以上もの間、兵庫県尼崎市南東部で、血縁関係にない人物を多く集め、疑似家族を築きながら共同生活を営んでいた。
そして、周辺では、1987年頃に当時、同居していた女性が失踪したことを発端に、複数の不審死や失踪事件が相次いで発生していた。
しかし、2011年監禁されていた女性が監禁状態から抜け出し警察に駆け込んだことで、相次いで死亡事件が発覚する。


生い立ち
出典 尼崎連続変死事件の角田美代子、その人物像に迫る | ダ・ヴィンチニュース
1948年、美代子は尼崎市に生まれる。美代子が小学2年のときに両親は離婚し、彼女は父方に引き取られた。左官手配師をやっていた父は気性が荒く、家に出入りする若い職人たちを力でねじ伏せ、中学の時に美代子が問題を起こしても「どっちみちうちの(美代子)が原因やろ。もうええわ」と突き放したような言い方をする人間だったという。10代の頃に実母に仕事を紹介され働き始めるも、その仕事というのは売春。幼いころから青春期に至るまで、美代子は家族の絆や温もりといったものを知らずに育ったのである。


自殺
出典 尼崎事件 - Wikipedia
2012年12月12日午前6時20分頃、兵庫県警本部の留置所にて、布団内で長袖Tシャツを首に巻きつけ、自殺を図っているのが発見され、病院に搬送後、死亡が確認された。
一連の事件が発覚した2012年10月以降、弁護団や留置係の警察官らに「生きていても意味がない」「死にたい。どうすれば死ねるのか」などと自殺をほのめかす発言を複数回していたという。逮捕後、主犯とされる容疑者が死亡したことにより、この事件の真相解明は極めて困難な状況になったと言える。


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