米国のコンクリ事件..少女を監禁拷問し「私は売春婦でそれを誇りに思う」バニシェフスキー事件
インディアナ州の犯罪史上で最も恐ろしい犯罪といわれる事件。日本では、リンチ行為の中身の酷似と取巻く傍観者の多さで日本の「女子高生コンクリート詰め殺人」に比せられることが多い。
ガートルード・バニシェフスキー
インディアナ州の犯罪史上で最も恐ろしい犯罪といわれる事件。
出典 (3ページ目)【閲覧注意】鬼畜の所業…! 残忍・残虐な拷問殺人事件5選
日本では、リンチ行為の中身の酷似と取巻く傍観者の多さで日本の「女子高生コンクリート詰め殺人」に比せられることが多い。
出典 シルヴィア・ライケンスさん(享年16歳) – 関心空域 す⊃ぽんはむの「元」関心空間ブログ
●事件まで
ガートルード・バニシェフスキー
1929年生まれの彼女は、16歳の時に2つ年上のジョン・バニシェフスキーと結婚、4人の子をもうけた。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
しかし、10年後に離婚。原因は夫のDVだった。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
離婚後、7人の子供を女手ひとつで養育しなければならない厳しい状況だった。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
子供たちの食事は、缶詰のスープだけ。彼女がソーダ売りをして稼ぐ金と前夫からの養育費だけでは7人をとても養えるものではなかった。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
そんな時、娘の友達・ライケンス姉妹を引き取る話が転がり込んできた。事情を知り、週20ドルでシルヴィアとジェニーを引き取ることを請け負ったのだ。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
●家族でシルヴィアを虐待する日々
バニシェフスキー家にやって来たシルヴィア
出典 www.flickr.com
1965年、バニシェフスキー家に姉のシルヴィア・ライケンと妹のジェニー・ライケンがやって来た。どちらも顔立ちのはっきりした美少女であった。姉妹は高校に通いながらバニシェフスキー家の子供達と一緒に生活し、日曜日にはガートルードと教会へ行ったりした。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
1週目は何事もなかった。ライケンス姉妹への虐待が始まったのは、2週目の支払いが滞った時だった。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
「私は慈善であんたたちを引き取ったわけじゃないのよ!」ガートルードはかく怒鳴りながら、姉妹の尻を叩いたのだ。小切手は1日遅れたに過ぎなかったが、虐待は留まるどころかエスカレートして行った。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
始めこそ素手で殴っていたが、革のベルトで鞭打つようになり、いつしか木の板やボートのオールで殴打していた。
出典 シルヴィア・ライケンスさん(享年16歳) – 関心空域 す⊃ぽんはむの「元」関心空間ブログ
さらにバニシェフスキー家の年長の2人が、母の虐待に参加するようになった。また近所の子供たちの多くが、この家に少女が監禁され、虐待されていることを知っていた。そのうちの何人かが面白半分で虐待に加わった。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
●妹を守るために
ガートルードは最初は姉妹どちらにも暴力をふるっていたが、やがて姉のシルヴィアを集中的に虐待した。シルヴィアが抵抗すると「それじゃ、代わりにあんたの可愛い妹を殴ってもいいのかい?」と脅した。
出典 シルヴィア・ライケンスさん(享年16歳) – 関心空域 す⊃ぽんはむの「元」関心空間ブログ
シルヴィアは、妹を守るために自ら矢面に立たなければならなかった。どうしてシルヴィアは逃げなかったのだろうか?思うに、小児麻痺の妹を庇うために逃げられなかったのだろう。自分が逃げれば妹に危害が加わる。そのことを避けるために、敢えて我が身を犠牲にしていたのだ。そうとしか思えない。
出典 シルヴィア・ライケンスさん(享年16歳) – 関心空域 す⊃ぽんはむの「元」関心空間ブログ
●惨すぎる拷問
拷問に関与したガートルードの家族や近所の子供達
縛り上げる、全裸にする、性器を集中的に蹴りあげる、焼印に熱湯責め、食事を与えず排泄物を食わせる、等々といった凄惨な拷問。この場にはわが子らや近所で呼び集めた男子、彼女のクラスメートも立ち合わせており、地域社会の裏側深くにまで「隠匿の結託」が張り巡らされた。
出典 シルヴィア・ライケンスさん(享年16歳) – 関心空域 す⊃ぽんはむの「元」関心空間ブログ
シルヴィアへの拷問は、非常に多くの性的要素を含んでいたが、一方で"性交渉なき性犯罪(sexless sex crime.)"と言えるものであった。シルヴィアは、ガートルードに性器を繰り返し蹴られ、クラスメートや近所の若者の前で全裸にさせられ、膣にボトルを挿入されているが、ガートルードがレズビアンとしてシルヴィアを嬲った根拠は報告されておらず、また、拷問に参加したいずれの若い男も、レイプやフェラチオを彼女に強いなかったと考えられている。 これは通例から考えると不可解なことであるが、おそらくコイ・ハバードがシルヴィアを強姦することでステファニーに浮気を疑われるのを恐れたのと、拷問に参加した若者たちは、 "彼女が本当に淫売で、性交により性病をうつされると信じていた" のではないかと推測されている。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
監禁されていた部屋とマットレス
シルヴィアが地下室に閉じ込められたのは、衰弱の果てにマットレスの上で失禁した直後だった。食べ物は満足に与えられず、トイレで用を足すことも許されなかった。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
さらに焼けた針で彼女の体に「あたしは淫売で、それが自慢なのよ!」という言葉を刻み込んだ。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
最後の望みを託し、助けを求めるために隣人に知らせようと窓からサインを送ってみたが、ガートルードたちに発見され、彼女はコンクリートの床に殴り倒されて、絶命した。
出典 バニシェフスキー一家事件 | 本当にあった恐ろしい事件
シルヴィアは死ぬ間際、唇が裂けるほど強く噛み締め、苦痛に耐えていたことが検死で明らかになった。
出典 (3ページ目)【閲覧注意】鬼畜の所業…! 残忍・残虐な拷問殺人事件5選
●逮捕
I am a prostitute and proud of it.
1965年、シルヴィア・ライケンスという少女が遺体で見つかった。その遺体には、身体中にアザや火傷の跡だけでなく“I am a prostitute and proud of it.”(私は売春婦でそれを誇りに思う)という文字が皮膚に刻まれていた。
出典 (3ページ目)【閲覧注意】鬼畜の所業…! 残忍・残虐な拷問殺人事件5選
ガートルードは遺体を確認した警官に1通の手紙を差し出した。それはシルヴィアが死ぬ直前に書いたという両親に宛てた手紙だった。ガートルードが強制的に書かせたものであることは云うまでもない。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
「パパとママへ。
この2週間、私が何をして来たか書こうと思います。
私は学校のロッカーから体操着を盗みました。
公園の販売機からコーラを盗もうとしました。
ロニーとドニー・シンプソンとセックスしました。ダニーとジェニーはそのことを知っています。
私はカリフォルニアでマイク・エルソンと一緒に人目を避けて暮らしていました。ジェニーとベニーはマイクのズボンが下ろされるのを見ています。
私は自分と同じようにジェニーをトラブルに巻き込もうとしました。
ママのことでマーティンおばさんに嘘をつきました。
私は3歳の子供の顔を殴り、お尻を叩きました。ポスト・ロードの屋外便所でやりました。
カリフォルニアで生活していた時に盗みを働きました。
ポスト・ロードの仕事をクビになったのは、私が子供の顔を殴ったからなのです。
トラブルばかり起しました。
私はママとパパが離婚してくれたらいいと思っています。そうすればママと一緒に暮らせるからです。
私は結婚している男とコンバーチブルに乗ってドライブしました。
ガートルードから10ドル盗みました。
ジミー・Bを落として、背中から地面にぶつけました。
理由なくシャーリー・Bをぶちました。
以上のことはすべて真実です。
ジェニーは行儀よくしてます。
シルヴィア・ライケンス」
「ライケンス夫妻へ。
私は夜中に少年たちと出掛けました。彼らは私が『いいこと』をしてあげたらお金をくれると誘ってきました。だから私は車に乗ったのです。彼らはやりたい放題やって事が終わると、私をさんざん殴りました。顔や体中に傷あとが残りました。
さらに、彼らは私のおなかに『私は売春婦、そして、それを誇りに思う』と書きました。
ガーティ(ガートルードのこと)の頭をおかしくして、財産を使い果たさせるためだけに、私はあらゆることをして来たのです。新しいマットレスを引き裂き、その上におしっこをしました。ガーティを神経衰弱にして、彼女が払えないような金額の医療費を払わせもしました。台所のいすも壊しました。私はずっとガーティや彼女の子供たちを神経衰弱にして来たのです。入院費が1日につき35ドルかかりました。それでも私はやめなかったのです。ガーティたちの迷惑になることなら、常識を外れていようと何でもやりました」
つまり、これほどに悪い娘なのですよ、だから折檻したのですよ、ということをアピールした。更に損害賠償金でもせしめようとしていたのだろうか? 誠に恐ろしい限りである。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
●終身刑
裁判において、ガートルードは精神異常を理由に無罪を主張した。しかし、その主張は通らず、第一級殺人で有罪となり、終身刑が云い渡された。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
娘のポーラと、息子のジョン、リチャード・ホッブス、コイ・ハバードの4名は、2年から21年の不定期刑が云い渡された。彼らは2年後に釈放されている。
出典 殺人博物館〜ガートルード・バニシェフスキー
●わずか18年で...釈放
18年間の刑務所での生活においてガートルードは、裁縫工場で働き、若い女性受刑者の母親役を務める模範囚であった。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
ガートルードの仮釈放に関するニュースは、インディアナ州の社会に大きな波紋を与えた。ジェニー・ライケンスとその家族は、テレビに出演してバニシェフスキーへの批判を行った。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
仮釈放のための公聴会の席で、ガートルードは「あの事件で私がどんな役割をしたかは分からない……クスリを常用していたから。私は本当の彼女を知らなかった……でも、シルヴィアの身に起きたことについては全ての責任を私が負います。」と述べた。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
●その後
ガートルードは1985年12月4日に出所し、改名し、アイオワ州へ移住した。1990年6月16日、アイオワ州で肺ガンにより60歳で死去した。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
シルヴィアが殺害された家は、2009年4月23日についに取り壊された。跡地は教会の駐車場になる予定。
出典 ガートルード・バニシェフスキー - Wikipedia
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