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殺害された有名人・殺人事件に巻き込まれた芸能人まとめ

そんなことが...。世界的にも有名な芸能人が殺人犯によって殺害された事件をまとめました。


ジョン・レノン殺害事件


ジョン・レノン
言わずと知れたビートルズのメンバー。


1980年12月8日にアメリカ・ニューヨーク市で射殺された。
出典 ジョン・レノンの殺害 - Wikipedia


当時ハワイ州ホノルルに在住していたチャップマンは、1980年12月8日の夜、ニューヨークのセントラル・パーク西側の72番通りにあるレノンの自宅であるダコタ・ハウスの前に到着したジョンを射殺。

彼はアパート前の草場の中で帰りを数時間待ち、帰宅すると背後から呼びかけた直後に拳銃を5発撃ち、内2, 3発が胸に命中した (他は肩) 。拳銃はハウスの警備員がすぐに駆けつけ蹴り飛ばされた。事件後チャップマンは現場から逃走しようともせず、警官が到着するまで現場をうろついたり、『ライ麦畑でつかまえて』を読んだりしていた。

ジョン・レノンの容態は急を要したため救急車を待たず、駆けつけたパトカーの後部シートに乗せられ、近くのルーズベルト病院に搬送されたが、出血多量による死亡が確認された。


マーク・チャップマン
ジョン・レノンを殺害したマーク・チャップマン


チャップマンは第二級謀殺の罪で有罪と認定され、「20年から終身まで」の無期刑の判決を受けた。
出典 マーク・チャップマン - Wikipedia


ニューヨーク州の州法では第二級謀殺の罪は20年服役後に仮釈放が許可される可能性がある無期刑が最高刑である。チャップマンは現在ニューヨーク州バッファローの近くにあるアッティカ州刑務所に収監されている。

2000年から2014年まで2年ごとに8月に、州の仮釈放委員会に累計で8度の仮釈放申請が出されたが、チャップマンの精神や言動に反省や謝罪や更生が見られないこと、ジョン・レノンの遺族である妻子に対する再犯の可能性があること、ジョン・レノンの妻であるオノ・ヨーコらの反対、もしチャップマンが仮釈放されたらジョン・レノンのファンから報復で殺される可能性があることなどを理由として毎回不許可にされ 、2014年現在も服役中である。

2014年に妻のグロリア・ヒロコ・チャップマンに初インタビューしたイギリスのデイリーメール紙によると、二人は年に一度44時間、刑務所内のキッチン付きトレーラーで過ごすことが許されているという。グロリアはハワイに住む日系人女性で、犯行の1年半前に結婚し、事件後も離婚していない。夫婦でオノ・ヨーコに対し赦しを乞う手紙を書いており、レノンとチャップマンは天国で再会すると信じており、ポール・マッカートニーも刑務所を訪ねて現在のチャップマンに会えばきっと好きになるだろうと語ったという。この件に関し、デイリーメール誌は「心がかき乱される内容」と評した。また、マッカートニーも「私は誰でも許せる性質だと思うが、こいつだけは許す理由が見つからない。こいつは正気を失って、取り返しのつかないことをした。そんな人間になぜ容赦の気持ちを恵んでやる必要があるのか分からない」と発言している。




力道山刺殺事件


力道山
プロレスラー


昭和38年、赤坂のナイトクラブで、国民的英雄のプロレスラー・力道山が住吉連合系暴力団の大日本興行組員に登山ナイフで刺され病院に搬送された。
出典 力道山・刺殺事件(事件史探求)


力道山と村田は以前にも些細なトラブルを起こしていたが、事件当日もクラブのトイレで足を踏んだ、踏まないということから口論となり、激昂した村田は持っていた登山ナイフで力道山の脇腹を刺した。この背景には、対立関係にあった住吉連合と力道山のバックであった東声会との因縁が根底にあったとされている。

刺された力道山は脇腹を押さえながら席に戻ると、付き添いの連中の心配をよそに平然と酒を飲んでいたという。だが、それも時間の問題で、次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。

【この日、相撲協会高砂親方が相撲関係者を伴って力道山に面会した。相撲協会から脱会(後述)した力道山にとって、これは嬉しい出来事だった。相撲協会の幹部が自分に頭を下げて「大相撲ロサンゼルス興行」の相談に来たのだ。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。TBSをあとにした力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かったというから泥酔に近い状態だったと思われる】。

診察の結果、緊急手術が必要と判断した病院側は、聖路加病院の外科部長に執刀を要請し手術が行われた。手術は無事成功し命に別条は無いものと思われたが、12月15日の回診で腸閉塞を起こしていることが判明し直ちに手術を開始した。だが、午後9時頃から危篤状態に陥り同10時35分に死亡した。死因はショック死とされているが真相は謎のまま(遺族の希望で遺体は慶応病院で解剖された。その結果、担当医は「傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因」と言っていた事が後年判明する)。

英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えた。圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びついた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかった。最後の言葉は「おれは死にたくない」だったと言う。


村田勝志
力道山を殺害した要因を作った村田勝志


力道山自ら持ちかけた喧嘩ということもあり警察沙汰にはせず、服役しなかった。
出典 力道山 - Wikipedia


高島忠夫長男殺害事件


高島忠夫
タレント・俳優・司会者
『土曜ショー』の司会者など。


1964年、生後5ヶ月で当時17歳の家政婦によって殺害された事件。
出典 高島忠夫長男殺害事件 - Wikipedia


1964年8月24日の未明、東京都世田谷区上野毛に在住の俳優・高島忠夫方より警察及び消防へ「息子が風呂に沈められ、部屋が荒らされている」との通報があった。

同日午前2時40分頃、高島宅に住み込みで働いている女中Aが「長男の姿が見当たらない」と高島夫妻に連絡し、ただちに高島夫妻(高島忠夫寿美花代)と女中Aが家中を探し回った。室内は物色されており、風呂場できちんと蓋の閉まった風呂桶の中に沈められている長男が発見されて大騒ぎとなった。警察や消防への通報と共に、長男はただちに自宅近くの小倉医院へ搬送されたが、既に心肺停止状態であり、人工呼吸などが試みられたが助からなかった。通報を受けた警視庁捜査1課と所管の玉川警察署は、殺人事件として捜査を開始した。

事件に最初に気がついた女中Aは「当日夜に窓の外を不審な男が歩いてるのを見た」「長男が激しく泣いてるのを聞いた」などと証言した。しかし調べてみると不自然な点が見つかり、これらについて女中Aを問いただしたところ、同日午後1時半頃に女中Aが自分の犯行であることを認めた。

この女中Aはもともと高島夫妻のファンであり、地元の新潟県の中学校を1963年に卒業してから都内の墨田区にある会社で仕事をしていた。そして、この墨田区にある会社にたまたま高島夫妻の知人がいる縁で、1963年暮れより高島夫妻宅に住み込みで女中として働くこととなった。

高島夫妻はこの女中をよくかわいがり、また女中も高島夫妻によく尽くしていたが、高島夫妻に長男が生まれた後は「長男へ愛情が移ってしまい、自分は疎遠に扱われるようになった」と感じていた。そして高島夫妻が仕事でアメリカへ行くことが決まった時に「他の女中へはお土産を買ってくると約束していたのに、自分は何も言われなかった」として思い悩んだ末に犯行に及んだという。

犯行当日、女中Aは高島夫妻の食事の後片付けなど済ませたあと、午前1時過ぎ頃に一人で風呂に入った。入浴後、自室に戻ったところ隣の部屋から長男のぐずる声が聞こえたため、長男の寝ている部屋へ行ったところ、長男は女中Aの足を掴むなどしてきた。女中Aはこの姿をかわいいと感じて長男を抱き上げ、夕涼み目的で庭先へ出て長男を抱いたまま、あやしたりしていた。その後、足が汚れたので足を洗おうと長男を抱いたまま再び風呂場へ戻ったが、この時に「この赤ん坊さえいなければ高島夫妻の愛情は私に戻るのではないか」と考え、気がついたら長男を湯船に沈めていたという。長男は激しく咳き込んだが、女中Aは、なおも長男を湯中に抑えつけた。そして「このままでは犯行がバレる」と思い風呂から出た後に物取りの犯行に見せかけるため、室内を物色されているように装ったという。


家政婦は当時未成年者であったが成人同様に殺人罪で起訴され、1965年6月に東京地方裁判所にて懲役3年~5年の不定期刑を言い渡された。
出典 高島忠夫長男殺害事件 - Wikipedia


●佐々木つとむ殺人事件


佐々木つとむ
はたけんじ、団しん也堺すすむと共に"元祖ものまね四天王"と呼ばれていた。
ものまねタレント神奈月の師匠。


1987年、当時佐々木が同棲していた39歳女性宅アパートにおいて刺殺されているのを発見。
出典 佐々木つとむ - Wikipedia


9月5日の高松公演を前に連絡が取れなくなって事務所のスタッフらが捜索しており、発見時には死後1週間が経過していた。警察は同居人の女を被疑者として捜査。なお、事件発生前被疑者が改名手続きの最中だったため当初は被疑者が2人いると思われていた。

佐々木には妻子がいたが、ギャンブルにのめり込んで巨額の借金を作り家庭内でのいざこざが絶えなかった。その末に佐々木は1987年4月ごろに家を出て、新宿のポーカーゲーム屋で知り合った女と同棲していた。女は佐々木の借金の一部を肩代わりしていたが佐々木が「それでも足りない」とさらに金銭を要求し、また女の貯金を勝手に引き出したり貴金属類を勝手に換金するなどしたため、2人の仲は次第に険悪になっていった。また佐々木はこの件で事務所の社長にも相談していたという。

事件当日(下記の最後の舞台に出た8月30日夜から8月31日未明とみられる)、女が飼っていた犬を佐々木が殴って骨折させたことがきっかけとなり、女は佐々木の全身を包丁でメッタ刺しにして殺害した。(2016年2月に放映された爆報ミステリー名前が出せない芸能界事件簿第7弾では、お前は一生俺の金ずるだと発言したことが殺害の動機だと報じていた。)犯行は突発的だったらしく事件現場に残された遺書には「私もお父さんのそばに行きます、私がお父さんを殺すなんて夢にも思わなかった」と書かれていた。女は犯行後佐々木の遺体に毛布を掛け枕元に水を入れたコップを供えていた。


女は犬を入院させた後消息を絶ち、2日後、入水自殺しているのが発見された。
出典 佐々木つとむ - Wikipedia


安室奈美恵実母殺害事件


安室奈美恵実の母
歌手として活動する安室奈美恵実さんの母


1999年、沖縄県国頭郡大宜味村において、歌手の安室奈美恵の実母が義弟によって殺害された事件
出典 安室奈美恵実母殺害事件 - Wikipedia


1999年3月17日午前10時40分頃に歌手の安室奈美恵(当時21歳、以下安室と表記)の実母(当時48歳)が義理の弟(当時44歳。安室の叔父にあたるが、安室の実母の再婚相手の実弟であるため、安室との血縁関係はない)に車で轢かれた後にナタで殴られる事件が発生。実母は病院に搬送されたが午前11時50分頃に死亡が確認された。

安室は前年の1998年に子供(長男)を出産し、12月に歌手活動を再開していた。事件当日の3月17日はニューシングル「RESPECT the POWER OF LOVE」の発売日であり、当日は同曲のタイアップ先であるアサヒ飲料「nice One」CMに関する発表イベントが予定されていたが、実母殺害事件の影響で急遽キャンセルとなった。

一夜あけ、新聞各紙1面、TVでも芸能面・報道面でもトップニュースとして伝えられ、芸能界にも衝撃が走る。地元県警と警察署は被疑者死亡の上で容疑者を殺人罪と夫に対する殺人未遂罪で書類送検した。同じくして動機も発表されたが、マスコミは様々な疑いや可能性を示唆する記事を書き立てた。また、同時に安室の実母が生前著した本「約束〜わが娘・安室奈美恵へ〜」(1998.9.17発売)に描かれた安室の生い立ち・成長と家族の絆がシンデレラストーリーとしてTVで数多く取り上げられた影響で出版社に一日で書店などから6万部の問い合わせや注文が殺到、しかし当時は在庫が無く同社は品切れとの対応に追われた。


殺害を犯した叔父は事件から4時間後に山中で死亡しているところを発見された。農薬による服毒自殺だった。
出典 安室奈美恵実母殺害事件 - Wikipedia


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